なぜ2ちゃんねらーは田舎ものでtwitterは都会人なのか
twitterにて http://twitter.com/pikarrr
pikarrr: twitterの140字ってどうやって決まったんだろう。なんでこんなに短いの?不思議だな。
通常、言語コミュニケーションは初対面の人でも容姿、場の雰囲気の情報のもとで行われる。しかしネットコミュニケーションはテクストのみの交換するという「極寒の極限」で行われる。だからほぼ真意は伝わらず、炎上しやすい。それを補完するサービスが重要である。なのに140字って・・・
twitterでそれを補完するサービスは、擬似的な顕名性として全コメントレス、他者とのコミュニケーションの跡を見ることができることで、コンテクスト(状況)が生み出される。このように「極寒」を補完しているのだろう。顕名性を上げることが一つのマナーになっているのかな。
yhosok: こんな雑文書いたことあるんですが、「議論が発散するSNS - Twitter雑感」http://yhosok.tumblr.com/post/191635017/sns-twitter コンテクスト共有は断念してるんでしょうね。
pikarrr: リンク先読ませていただきました。謎が一気にとけました。twitterは「都会的」というか「実社会的」なんですね。
実社会では電車内など隣にいてもコミュニケーションを望んでいるわけではありませんが、ネットでは存在することがコミュニケーションを望んでいることを意味します。だからなにを言っとも許される、という錯覚がうまれる。
それに対してtwitter空間は「実社会」に近い。ただネットにいるだけで、独り言をいってるだけでよい一人空間を作り出しているのではないかと思いました。
twitterはネット上のほっとステーション、動物化するネットコミュニケーション。ネットも成熟したものです。
2ちゃんねるでは有名人や顕名を見つけると田舎ものごとく騒ぎますからね。それにくらべて有名人を前にしてもクールな都会人のtwitterらー。雑文ですがこんなの書いたことがあるんですが、「なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090709#p1
yhosok: なるほど、実社会ですね、確かに。ただ、独り言と言っても、一応リスナーの存在を意識してる面はありますね(背後からですが)。
pikarrr: ネット上はいつもリスナーを意識している(ねつ造している)んだと思います。ネットの初期はHPを作っただけで「世界中の人が見れる。すごい!」とよく言われてました。でもネット都会人になったクールなボクたちはもはや田舎もののように大げさにはねつ造できない。
まだ色々あると思いますが、上記の特徴から連想するのは、Twitterは「都市的」だということです。SNSでは、ネット上に共同体的なものを作ってるのじゃないかと思います(よく知らないのですが(笑))。コミュニケーションを求めて集まるというのは、イコール共同体的なものを求めるということです。
Twitterでもコミュニケーションを求めて集うわけですが、常に共同体的なものが確立されないよう、「はぐらかす」仕組みになってると思います。これもやはり「都市的」です。
人間は誰かに向かって何か表現したいし、意識を共有したいと思う。しかし、これは突き詰めていくとどこかで破綻します。これがうまく回避されたシステムのTwitterは、少しだけ「都会的」物足りなさがありつつも、泥仕合にならない安心さがあると言えないでしょうか。「今のところ、Twitterは日本のウェブベースのメディアとして初めて実名が標準になりつつある(池田信夫)」のは、この辺の仕組みが貢献してるのではないか、と思います。
「議論が発散するSNS - Twitter雑感」 http://yhosok.tumblr.com/post/191635017/sns-twitter
実社会の都会の規律を支えるのは「儀礼的無関心」である。それを可能にするのは整頓された「マクドナルドな公共空間」である。ネット上でも「関心」環境が整備されることで、「関心」への過剰さは薄れて、「儀礼的放置」のようなものが浸透してきている。このような関心への軽さがネット上の社会を洗練し、ムラ社会から「都会」へ向かっている。
たとえば近年、確実に国家によるネット上の表現への規制は進んでいるが、それに対する反発は強く表れない。もはやネットユーザーそのものが、ネット社会の秩序(コミュニケーションを成立させる)ことよりも、実社会の秩序(それぞれが経済活動に貢献する)ことを重視し始めている。ネットのムラ社会の過剰さ、実社会の秩序との衝突に対して冷めてきている。
さらに強化される規制によって定期的に逮捕者を出すことが、実際にどこまで監視できているかに関わらず、ネットは監視されているというまなざしがパノプティコンとして作動している。このような監視をネットユーザーも許容し始めている。すなわちムラ社会の解体がネット上の社会への帰属意識そのもの、すなわちネット上の社会というものを希薄化させている。
「なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090709#p1