なぜTwitterにはまるのか Twitter育成ゲーム説 

pikarrr2009-11-29

Twitterはブログ型


140字をつぶやき続ける。なぜそれだけではまるのか。というのがTwitterに対する素朴な疑問だろう。Twitterは一種の「育成ゲーム」だからである、と考えてみる。なにを育てているのか。掲示板そのものである。

掲示板では場所としての枠組みがあり、議論のテーマがあり、コンテクスト(文脈)の連続性が支えられている。それに対してブログでは自分の知識の積み上げが静的に蓄積される。蓄積されるキャラクター(自分自身)が連続性を支えている。

ではTwitterは?Twitter掲示板(チャット)のようだが、ミニブログと呼ばれるブログの一種である。Twitterには掲示板としての固定された場所はない。固定されるのはつぶやきが蓄積されていく自分のページ(ミニブログ)であり、それがTwitter上のキャラクターとなる。そしてキャラクターが他のキャラたちとフォローする/フォローされることで自分だけの掲示板が作られていく。

ここに140字制限ルールの理由の一つがあるだろう。もし文字数制限がなければ、みんな長文で日記を書いて、掲示板としてのコミュニケーションの流動性は失われて、ただのブログにもどってしまう。




「居場所」を育てる育成ゲーム


掲示板を育成するのは簡単ではない。Twitterではただ自分勝手に他の人をフォローして、自分の掲示板に他者のコメントを反映させるだけでは掲示板とはいえない。自分のコメントを見てもらえ、返答してもらえるフォロアーを集める必要がある。すなわち掲示板の育成には他者の評価に大きく依存する。他者が外在化している、ということだ。

また育成ゲームの特徴は古くはたまごっち、最近はラブプラスなどリアルタイムで進行すること、このとき時間が外在化される。現実のように自分と関係なく時間が流れ続ける。Twitterも同様にリアルタイムで進行し、時間は外在化し、コメントは次々流れていく。

このために地味なメンテナンス(つぶやく、相づち)の継続によってのみ、掲示板は維持され育成される。すなわちTwitterという育成ゲームで育てているのは、単に掲示板ではなく、他者とコミュニケーションできる「居場所」である。さらにこのようなコミュニケーション環境の中で「自分自身」が作られる。このために掲示板はいとおしく、守るべきものとなる。

このような育成はそれなりの時間と労力がいる。2ちゃんねるのような掲示板のように場が固定されてあり、好きな時にコメントして終わりと言うわけにはいかない。Twitterがよくわからないと言う人の多くはまず場を作らなければならないことがわからないのだろう。




疑似共有な掲示


通常の掲示板では場が固定され、そこに人が集うために、「場所取り」の諍いがたえない。あるいは単発的で無責任に好き勝手にコメントして去っていく。このために2ちゃんねるのようなムラ社会的な繋がり/排他がうまれる。

Twitterにも同様な諍いが起こる可能性があるだろうが、Twitter掲示板は、疑似的にしか共有されていない。実際はそれぞれが個別化された自分だけの掲示板をもっている。このめに、いやなフォロアーを反映させない、あるいはブロックするなど、容易にズラすことができる。Twitterの繋がりは「緩やか」である。




Twitter「都会化」


擬似的にしか共有されない緩やかな繋がりに連続性を与えるのは「居場所」であり、自分のコメント、他者との会話の中で育成される「自分自身」=自己キャラである。自己キャラは固定ハンドルであるが、それ以上だろう。匿名のようなその場限りの関係ではなく、蓄積されたコメント群という過去をもつ。自らを時間をかけて育成した血肉、いわば守るべき擬似的「身体」である。

Twitterではみながそれぞれの守るべき「居場所」「身体」をもって対面するために、たがいに傷付けあう争うことは回避される。これは実社会に似ている。2ちゃんねるなどがムラ社会であるとすれば、Twitter「都会的」である。都会では人々は自らの趣向の世界を保ちつつ必要以上に干渉しないように距離を保つ。

2ちゃんねるでは有名人が来ただけでパニックになる。しかしTwitterでは有名人がユーザーとして存在し、コミュニケーションと成立している。みながそれぞれの守るべき世界をもつことで、秩序が保たれている。またTwitterの特徴として、開かれた掲示板にしては実名で登録している人が多い。これは「都会化」という秩序ある関係が実名を受け入れる下準備になっているのだろう。

Twitterの楽しさはこのような比較的安全で緩やかなつながりの中で、容易に柔軟に新たな繋がりを作り、自己キャラを育成することができることにあるだろう。




「責任」のプラットフォーム


Twitterがそのはじめから政治的なツールとして活用されているのは興味深い。(日本の)ネット掲示板は公共性をうまく作り出せずにきた。その理由はネットの匿名性によるだろう。ネットの掲示板には、ユーザーは非連続的に登場するために、キャラクター統一されずに「責任」がうまれなかった。Twitterはその「都会的な身体性」によって、はじめて掲示板上に「責任」のプラットフォーム=公共性が生まれる可能性がある。

たとえばいまでにもテレビでネット掲示板を紹介することは良くあるが、Twitterの場合には、いままでの匿名の発言ではなく、「身体」をもったキャラとして発言する分、その場限りの発言ではなく、責任が生まれる可能性がある。

さらに現代の実社会の公共性は、消極的な自由、儀礼的無関心を基本にして、受動的な関係でしかない。しかしTwitterでは責任ある主体が秩序をもちコミュニケーションすることで、より能動的な議論ができる可能性がある。このためにTwitterの公共性はネットというよりも、新たな積極的な政治を生み出す可能性があるのかもしれない。




140字の限界


しかしそう簡単ではないだろう。そもそもTwitterの140文字制限でいかほどの議論ができるだろうか。まともな議論はほぼ無理である。

またブログならば様々なコンテンツを作成でき、その中身によってアルファブロガーのような集客を可能にするが、リアルタイムで140字制限の表現でどの程度のコンテンツがつくれるだろうか。このためにTwitter 上の人気度(フォローされる数)は、Twitter以前の実社会の知名度や肩書きによって決まる面が強い。

通常の掲示板のように場があり、投稿すれば誰にも等しく公開されるわけではなく、それぞれが好きなフォローを選ぶ。そして多くにおいて知名度が高い人が選ばれやすいという点で、著名人の発言が大きな声をもつ特徴がある。




ストックとフローの改善希望


これを回避するためには、補完的に機能が必要だろう。たとえばTwitterのリアルタイムの掲示板部分がフローで、自分の発言が蓄積されるミニブログがストックであるとすれば、ストック機能の充実。蓄積されたコメントを編集しコンテンツを作成するようなストック機能の充実。これによってより広くユーザーへアピールすることができるようになる。

あるいは、フロー機能の補完として、補完的掲示板を設置する。Twitterユーザーがユーザー名で参加する通常のテーマ、場が固定された掲示板があれば、より活発な出会いがうまれ、議論が行われる可能性がある。Twitterにはハッシュタグの機能がありますがそれではまだまだ不十分です。




データベース化される「身体」


つぶやきは案外あなどれない。なにかテーマがあり発言するよりも、知らずに自分に関する多くの情報が垂れ流されたりする。(すでに行われているのかもしれないが)蓄積されたコメント群を分析することで自分のデータベースが作成されるかもしれない。実名の個人情報とともに趣向や性格までデータベースに登録される。

そのデータベースを様々なネット上のナビゲートシステムと繋ぐことができれば、より便利な未来がまっているだろう。趣向にあわせてamazonから本やCDなど紹介するナビゲートシステムがあるように、様々な商品、サービスから思想までナビゲートされる。逆に言えばTwitter「身体」自由主義経済マーケティングの格好のターゲットになる。すなわち監視システムとして優れているということだ。

まだ色々あると思いますが、上記の特徴から連想するのは、Twitter「都市的」だということです。SNSでは、ネット上に共同体的なものを作ってるのじゃないかと思います(よく知らないのですが(笑))。コミュニケーションを求めて集まるというのは、イコール共同体的なものを求めるということです。

Twitterでもコミュニケーションを求めて集うわけですが、常に共同体的なものが確立されないよう、「はぐらかす」仕組みになってると思います。これもやはり「都市的」です。

人間は誰かに向かって何か表現したいし、意識を共有したいと思う。しかし、これは突き詰めていくとどこかで破綻します。これがうまく回避されたシステムのTwitterは、少しだけ「都会的」物足りなさがありつつも、泥仕合にならない安心さがあると言えないでしょうか。「今のところ、Twitterは日本のウェブベースのメディアとして初めて実名が標準になりつつある(池田信夫)」のは、この辺の仕組みが貢献してるのではないか、と思います。


「議論が発散するSNS - Twitter雑感」 http://yhosok.tumblr.com/post/191635017/sns-twitter 

フーコーは、ベンサムパノプティコンに、近代を定義するような権力形態を見た。ついでポスターは、コンピュータが可能にするデータベースは、パノプティコンのようり完成された姿であると見なした。・・・もはや、ベンサムの建築物のように光学的な詐術を用いる必要はない。現代の技術を使って、ほぼ完全に普遍化された監視状態を現実に作り出すことができるのであり、さらに、それに対応して、非常に多くの人が、それを受け入れ、監視されていることに快楽を覚えてさえいるのだ。

・・・自らを不断に観察している他者の視線を想定したとき、その視線に対するものとして、自らの何でもない人生が、一種の物語として、虚構性(仮想現実性)を帯びた時間的連続性として、現れることになるのではないか、と。・・・他者の視線の中で主人公であろうとすれば、人は、自らの人生を、その他者の視線の中で一貫した物語性を有するように編成して、演じたり、記述したりしなくてはならず、そのことは結果として、人生の他の部分から特的の局面のみを切り離して意味づけることになるだろう。

あとがきより 大澤真幸  「情報様式論」 ISBN:4006030479


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