なぜ日本人には思想がないのか

pikarrr2010-06-05

「言わずもがな」で見えない日本人


なぜ日本人には思想は必要ないのか。西洋的な思想の特徴は言語依存が高いことにある。論理や理屈、すなわち言語による体系化が重視される。これは今でいう見える化である。現前に明らかにする。

多様な価値の多民族社会では互いに「見せあい」主張することが求められる。それに対して島国日本では思想、宗教は地域コミュニティの生活の中で身体訓練、習慣として伝達されていく。多くが改めて現前化されず、「言わずもがな」、として伝達・共有されていく。

近代において西洋文化と出会い、日本人を見える化しろ」と強迫されてもそのようには出来ていない。だから西洋人には日本の思想はないものになる。日本の思想は言語化できないものなのだ。たとえば音楽を言語化するようなものだ。




日本人はテレパシーで繋がる宇宙人


日本人の特徴としてすぐ異文化を吸収してアレンジする柔軟性があげられる。また日本人は島国根性で国際人になれない不器用さが指摘される。

この柔軟性と不器用さの矛盾はなにか。日本人には現前化する思考がないから外部からの思考を取り入れやすい。しかし頑なな習慣が体に染みついているから習慣が変わるには時間、あるいは世代交代を要する。

すなわち日本人の不思議は日本人であることを現前化することがない、そのような習慣、方法をもたないこと。その代わりに身体同期により関係を維持する高い技術をもつ。確かに西洋人には見えないテレパシーで繋がる宇宙人のごとく、不気味な民族に見えるのだろう。




日本人の資本主義への高い順応性


日本が経済大国になり、幸福な国を作り出せたのも、日本人独自の資本主義への順応性による。日本には思想はないが、資本主義への高い順応性を示した。高い生産性を達成し、豊かな社会を生み出している。

資本主義には必ずしも言語化は必要ではない。日本人のもつコミュニティ中で身体訓練、習慣として伝達されていく「言わずもがな」の技術は、資本主義への高い順応性を示した。明治開国後の社会的な富国強兵、戦後の護送船団の会社主義という形で、高度な、生産システム、高度な消費システムを発達させた。

そしてハイテク製品を生み出す技術力、生活の細部に充実した消費社会は、現代のクール・ジャパンにまでなった。相変わらず、日本人はなにものか見えずに、不気味でありつづけてもである。




資本主義に順応しすぎる閉塞


むしろ問題はあまりに資本主義への順応が高すぎることにあるのかもしれない。細分化され多様な商品とそれを全国隅々まで提供する配送ネットワークの発達が、地域的な習慣を解体し、全国商品と結びつい習慣を提供する。すなわち形式合理主義、マクドナルド化である。

そして逆に画一化に逆らうように、「自分さがし」的に自らを現前化=見える化しようと懸命になっている面がある。しかしこれが西洋のような、多民族に向けて主張する現前化技術ではなく、細分化された小さなコミュニティへと「言わずもがな」と身体同期しようとするものである。

なぜ、市場原理主義が貧しい形式的合理主義・マクドナルド的な再帰性に陥るのか・・・マクドナルド化における予測可能性とは、偶然性を排除することであり、計算可能性においては、質より量を重視する。

マクドナルド化は、形式的合理性の内部に留まり、実質的合理性を欠く事態を指す。ここから形式合理性の内部で反射的に振る舞うマクドナルド的主体」という概念が導き出される。哲学者の東浩紀は、この「主体のマクドナルド化動物化という概念で記述している。動物化とは、・・・通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動するマクドナルド的主体」を指すものと考えられる。


ネオリベラリズム精神分析 樫村愛子 (ISBN:4334034152




「客観主義の形而上学


現代人は西洋文化を基本としているために、見える化されることが当然のことになっている。だから日本人の「言わずもがな」は認められない。

しかし見える化言語化することはかなり特殊な行為である。いまでは思考が行為に先行することが当たり前に思われているが、それは錯覚であって行為に先行する思考など存在しない。

ようするに「キリンの首問題」である。「なぜキリンの首は長いのか。」「高いところの草を食べるため。」キリンの首は何百万年という多様な環境変化の中で少しずつ伸びわけで、そこに絶えず高いところの草を食べる優位性の淘汰圧が働き続けたという一元的な理由に還元などできるわけがない。それはあくまで首が長いという結果から帰結された問いでしかない。

見える化言語化すること=思考とは、「キリンの首問題」そのものである。これを「客観主義の形而上学と呼ぶ。

認知言語学の指導者の一人G・レイコフは、論理学的な「論証」という思想に、「客観主義」形而上学が含まれていることを明らかにしました。ここにいう「客観主義」形而上学とは、次のような見方のことです。すなわち、あらゆる現実は人間の理解の働きから独立した「もの」からなっていて、「もの」はいついかなる時点においても同一であり続ける属性および関係を有する、とする世界観です。

客観主意は、人間がどのようにしてものごとを知ることができるのか、人間の正しい論理的思考とは何か、真理とは何であり意味とは何であるか、といった哲学の基礎的な問題に対して、首尾一貫した解答をもたらそうとする企てでもあります。P23-24


「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965




西洋哲学はみごとな理屈芸術


日本人に世界に通用する思想家が生まれないのは、海外の現前化された思考は学習できるが、海外の習慣まで学習することは困難だからだろう。子供の頃から身についた習慣は言わば一回かぎりのものであり、書き替えることは困難である。第二外国語を学習する限界のようなものだ。

西洋文化にも言語化されえないそれぞれの習慣はある。それでも多民族では正当性を主張するための自らを現前化する伝統がある。

かつて西洋では言語学とは討論するためのレトリック術だった。言語学で論理が重視されるのは近代以降であるが、カントにしろ、ハイデガーにしろ、近代の西洋哲学が正当性を主張するためのみごとな理屈芸術であることには代わりがない。そしてそこに「力」が生まれる。

日本史を通じて思想の全体構造としての発展をとえようとすると、誰でも容易に手がつかない所以は、研究の立ち遅れとか、研究方法の問題をこえて、対象そのものにふかく根ざした性質にあるのではなかろうか。・・・これはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関係を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で −否定を通じてでも− 自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。P4-5


「日本の思想」 丸山 真男 (ISBN:400412039X

日本において丸山真男がいう「古層」が抑圧されなかったのは、日本が海によって隔てられていたため、異民族に軍事的に征服されなかったからである、と。日本に入ってきた宗教が仏教であったがゆえに、「去勢」がおこらなかった、ということではない。仏教は特に寛容な宗教ではありません。逆にいって、一神教が特に苛酷だということもない。苛酷なのは、世界帝国による軍事的な征服と支配です。宗教がたんにその教えの「力」だけで世界に広まるということはない。その証拠に、世界宗教は、旧世界帝国の範囲内にしか広がっていないのです。世界帝国は多数の部族や国家を抑圧するために、世界宗教を必要とした。P104

「島」においては、自らの輪郭を維持するためのエネルギーが消費されず、また、外から何でも受け入れるが、プラグマディックにそれを処理して伝統規範的な力にとらわれず創造していくことが可能になる。こういえば、宣長「やまと魂」と呼んだものが、いかにして生じたかが説明できます。日本列島には多くの種族が古来渡来してきていますが、軍事的な征服は一度もなかった。だから抑圧あるいは「去勢」がなかったのです。P111


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228



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日本人に哲学思想は必要か NHK「ハーバード 白熱教室」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100531#p1

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