なぜ日本人にあいさつは必要なのか

pikarrr2010-07-16


日本人の儀礼としてのあいさつ


考える名無しさん

あいさつってのは自分に利益をもたらしてくれそうな相手、もしくは危害を加えてきそうな相手に対する点数稼ぎでありゴマスリにすぎない。


pikarrr

海外では挨拶しない文化は多い。日本人の挨拶に関して言えば、ハイコンテストな「いわずもがな」な社会だから、ぶっちゃけ省略しててもよいだろう。たとえば家族など身近では省略されてる場合が多い。

しかしこれを社会全般に展開すると、「なあなあの甘え」が反乱して社会秩序を維持することがむずかしい。だから日本人はハイコンテクストな習慣を儀礼化することで、「なあなあの甘え」を抑止してきた。日本人がいまも形式的儀礼社会であるのはこのためだ。

これに対して、「もう挨拶いらないだろう」とは、儀礼なくても社会秩序は保てるだろうということを意味する。なにによってか。資本主義的な経済的合理性によってである。いまの日本は経済的に成功し、経済的な合理性によって社会秩序が維持されている面が高い。ようするに「礼儀とかいうな、結果を出せばいいんだろ。」ってことが、挨拶を疑う可能性を生んでいる。

しかしこのような素朴な懐疑に、経済的合理性による問題が考慮されているか疑問である。経済的な秩序とは個人主義的自由競争社会である。だから結果が出なければ切られる。だから問題は結果をだしつづけられるのか。ということだ。

反抗期はいいんだろうが、長い社会生活では経済的な合理性だけでは生きてはいけない。日本においての経済的な成功においても、また経済的に失敗した場合にも、ハイコンテクストな日本で生きるには儀礼的な秩序を重視することは、幸福にかなっている。挨拶せず回りを不快にするぐらいなら、早めに海外に行くことをお勧めする。

考える名無しさん

挨拶しなければいけないと思い込んでしまうように、最近は減ってきてる気もするけど。挨拶してもらえなくていつも怒ってるなんてお互いに損にしかならないから。まずしなければいけないじゃなくて何の為に挨拶をするのかを考えれば、他人に挨拶を強要するようなことは無くなるんだけどね


pikarrr

人の行為の99.9%は習慣などの理由がありません。なぜなら意識し意味を問うことは、とてもエネルギーを消費し、CPUに劣る脳の限られた処理能力に限界があるからです。

行為はすべて自分の意思でコントロールしているのは錯覚です。ほとんどが考えるまえにすでに行為は始まっています。たとえば自分がどうやって歩いているか知っていますか?どのような足の運びで、体重をどのように移動し、重心を保っているか、一切知りません。


pikarrr

意思でコントロールして、次々と会話が続きますか。会話の掛け合いは反射ですから、次になにを言おう、と考えている暇などありません。おはよ!と言われると、反射的に習慣でおはよ!といってしまっているのです。

だから日本人に問うて理由があるのは、なぜ挨拶しないのか。なぜ挨拶することを疑問に思ったのか。でしかないのです。


考える名無しさん

いや習慣は育つ環境で変わるから自分の習慣を絶対的な物と信じ他人にまで求めたところで、その他人にもまた別の信ずる習慣があるわけで。それは同じ習慣の中での人付き合いから、一歩出ることで気付いていけると思うけど


pikarrr

確かに日本人的な習慣は海外にでないと気が付かないですね。回りが日本人だらけだと、挨拶することが当たり前ではないことに気がつく。そしてまた日本人のすばらしさにも気づく。


考える名無しさん

そう。お前は挨拶も出来ないのか、とゆう態度では、挨拶の習慣が無い人に挨拶の素晴らしさを伝えることはできない


pikarrr

外人にいきなりお前は挨拶も出来ないのか、というのはちょっとですね。あまり聞かない話ですが


pikarrr

日本人が海外に工場を造る場合には、日本式の挨拶から教える、というのはあるでしょうね。挨拶をとおして規律を身につけさせる。国ごとに労働力の質というのがあって、日本型の品質重視では、挨拶というのは有用ですね。逆に言えば日本人の挨拶に見られる礼儀正しさ、勤勉さが日本製品の高い品質を生み出してきたと言える。


考える名無しさん

外国人じゃなくて挨拶の習慣が無い人ね。まあ工場にしても現実は日本の礼儀に合わせられる人しか認めない、とゆうのは不利になるから。日本でも管理者意外には多く求めずに幅広い人材を扱える企業の方が成長してる


pikarrr

日本で育って挨拶の習慣がない人はいないわけで、外国人でいいでしょ。日本人はその意味ですでに、幅広くても、狭くても良質な労働力なわけだ。

そりゃ、外国人はトンデモないからね。日本人だと最低でも時間内はまじめに働くが、海外では同じところに座っていることも慣れてないので、かってにうろうろしたり・・・挨拶以前に勤勉さの習慣が違うから


pikarrr

日本人の勤勉さの習慣は日本にいるとあまりに当たり前で、バイトだろうが、日本人なら誰を雇っても一定の勤勉さは習慣で身につけてるから安心。

海外に行くと大変らしいよ。たとえば都市の電車でも、1、2時間遅れのが普通とか。日本人は電車は時間通りにくることが当たり前だが、この当たりも勤勉習慣だよね。挨拶はその一つ。

勤勉習慣を身につけてる日本人が挨拶しなのは、習慣がないのではなく、あえて挨拶をしないわけだから、そこに理由がある。怒っている、反抗期だから、引きこもりだから、目が不自由だから、宗教上の理由から、精神的病とか


考える名無しさん

日本人でも挨拶の習慣が無い人はいるよ。あいさつしてもらえないくらいで相手をおこっている、反抗期だから、引きこもりだから、目が不自由だから、宗教上の理由から精神的病とか、と決め付けるのはよくないよ

そんなことではむしろ挨拶のせいで摩擦が増えてしまう。例えば挨拶して挨拶を返ってこなくても怒るようなことではない相手が魅力を感じる接しかたをすれば、たとえひねくれた人間でも何かしら返ってくる。


pikarrr

日本で教育を受けた人で挨拶の習慣がない人はいないな。習慣は体に染みついてみるもので、自分で変えることはできない。三つ子の魂。習慣とはそういうものだ。だから挨拶することは習慣なので理由はないが、挨拶しないことは意図的な行為で必ず理由がある。

反抗期だから、引きこもりだから、目が不自由だから、宗教上の理由から精神的病とか。

あるいは相手に魅力がないことを知らすため、ひねくれているから






習慣は変えられるか



考える名無しさん

挨拶する習慣の無い人は普通にいるよ。挨拶してもらうことを当たり前と思ってはいけない


pikarrr

挨拶って、してもらうことなんだろうか。不思議な考え方だ。これって、自分が尊敬する人に挨拶してもらえた、嬉しい!とか、あこがれのあの人に挨拶して欲しいな、という場合にのみ使う言葉で、オレに挨拶して欲しいか、と自分に使うのは、自分をとても高い位置におくプライドが高い、尊大な考え方だな。これだと日本での社会生活は不可能だと思うのだけど

挨拶の習慣は、始めから儀礼として場所(コンテクスト)に埋め込まれている。日本人ならもう身についているから、その流れに身を任せているだけで、一々考えながら挨拶するわけではない。

たとえば年上の人に敬語を使うのと同じこと。年上の人に敬語で話して欲しいか、というのがおかしいのと同じ。外人タレントの誰にでもため口のおもしろネタじゃあるまいし、変だよね。


pikarrr

確かに日本人で挨拶の習慣がないひとがたくさんいた。子供だ。子供なら、挨拶せずに、敬語も使わずに許される。大人であいさつできないのなら、大人になりたくない的な人かな。オレに挨拶してほしいか、という考えも幼児的だと思う。現代の若者は甘やかされて育つので、プライドが高いが打たれ弱いという幼児化していると言われる。

それでも、彼らに挨拶の習慣がないということはと思う。日本で教育を受けた人で挨拶の習慣がない人はいない。習慣は体に染みついてみるもので、自分で変えることはできない。三つ子の魂。習慣とはそういうものだ。

単にまだ社会経験が少なくて、恥ずかしいだけだと思う。思春期は一種の病で、習慣を疑ってしまう神経症状態になる。年齢は高いが思春期という人が増えているのか。思春期が大人になるように慣れの問題だ。


考える名無しさん

礼儀って他人に求めるものじゃないんだけどね。結局他の価値観を無礼だの幼稚だのと言って馬鹿にすることしか出来ていない気がする。礼儀正しい社会を作りたいのならば、無礼者を馬鹿にして争いを起こしていては誰も付いてこないからやっぱり自ら礼儀正しく人に接して真似されるような存在にならなくては


pikarrr

礼儀を他人に求めるという考えも変わっている。習慣は始めから儀礼として場(コンテクスト)に埋め込まれている。日本人ならもう身についているから、その流れに身を任せているだけで、一々求められ挨拶するわけではない。挨拶を疑うのは懐疑しすぎだ。神経症の兆候だ。

たとえば年上の人に敬語を使うのと同じこと。年上の人が年下に敬語で話すのを求める、ということとを同じで、変だよね。

たとえば日本語では、"You"をきみ、あなた、オマエ、てめぇなど、多用な表現がある。これらは場(コンテクスト)によって使い分けられる。日本語の礼儀であり、習慣だ。日本語そのものが礼儀、習慣でできている。その一つが挨拶だ。だから日本語を母国語として覚える時点で、儀礼、習慣を訓練される。

いかに他の価値と相対主義を気取りたくても、もう母国語を選べないだろう。礼儀、習慣は好き勝手に選べるようなものじゃない。


考える名無しさん

礼儀、習慣は好き勝手に選べるよ。お前の中には絶対的な礼儀習慣があるかもしれないけど。それは実は絶対的なものが決められてるわけじゃないんだよ。地域によっても違うし世代によっても違う。厳密には一人ひとり違う。

だから自分の教わったことを絶対的なものと思い込むんじゃなくて、それは指導者の知恵として利用するものでそこからあたらしいやり方を生み出すんだよ


pikarrr

日本語そのものが礼儀、習慣でできている。その一つが挨拶だ。だから日本語を母国語として覚える時点で、儀礼、習慣を訓練される。

いかに他の価値と相対主義を気取りたくても、もう母国語を選べないだろう。礼儀、習慣は好き勝手に選べるようなものじゃない。


考える名無しさん

解り易く説明すると、言葉ってのは正しいものがあるわけではないんだよ。実は辞書があってそれに合わせて言葉を使うんじゃなくて、言葉は自然に生まれるものなんだよ。それに合わせて辞書が出来てるんだよ。だから常に新しい表現が生まれたり古い表現が消えたりもする


考える名無しさん

例えば正しいと教わった習慣も先人から、不変ものとして受け継いできた訳じゃなくて、変化を許したうえで後世に伝えられ進歩してきたようなものなんだよ。だから今の習慣に欠点があればどんどん変えて伝えてゆけば良い。ただ他人の考えを馬鹿にして変えようとしても誰も付いてはこないよ。その人にもまた別の正しいと信じる習慣があるからね


pikarrr

なんでも変わるよという、安直な相対主義を言うのは簡単なこと。俗に言う中二病だよね。

そうではなくて、なぜ変わらないのかが重要。今キミと僕が会話してるのは日本語だよね。これを、100歳のおじいちゃんに見せても意味がわかると思うよ。表層の流行言葉はあるだろうけど、日本語という習慣の本質はかわらないよ。挨拶しかり。

絶対なんかないだろう!なんて子供だましで自分をごまかしてはだめ。ちゃんと挨拶しなさい!


考える名無しさん

意味は通じるけど、多少は言葉遣いに変化は起きてると思うよ。そこでおじいちゃんが変化は許さんと怒るかもしれない。そしたらそのおじいちゃんの表現を的確に受け継ぐのか?


pikarrr

多少の言葉遣いしか変化はない。言葉の習慣の本質は変わらない。意味が通じると言うことは辞書ではないのだよ。そこに習慣が共有されているということ。


考える名無しさん

習慣も100年前とは結構変わってるけど


pikarrr

100年以上だが、近年の日本の習慣の変化は、明治開国と世界大戦敗北だろう。明治の開国では西洋文化が流れ込んで、社会制度から服装から変化した。このときに国家としての日本が生まれ、日本語も西洋化しいまの「国語」が生まれた。敗戦では全体主義から民主主義への変化によって日本は国民主権へ変化した。

侵略されなかったのが幸いだろう。侵略されると母国語が日本語でなくなっていたかもしれない。それぞれ日本人の習慣は大きく変わっている。しかしそれでも本質は変わらない。

問題はなぜ変わらないのか。日本語は場を重視する言語だし、ギャル、ギャル男でもすぐに同じ服装をする同調圧が高いし。みんな空気に敏感だし。挨拶するし・・・






狂気を回避するためのあいさつ



考える名無しさん

挨拶をしてもらえないと腹を立ててしまう人とゆうのがどうしてもいるんだけど、これが今の挨拶の欠点でもあるんだよ。挨拶してもらえないとコミュニケーションすることすら出来なくなる。俺の場合は挨拶しない人でもする人でも普通にコミュニケーションできるから、これからの時代そうゆう人が求められてるんだと思う


pikarrr

日本人における挨拶がいかに深い習慣かわかってもらえたと思います。挨拶は決して、してあげる、してもらうというような浅いものではない。

たとえば電車の中で、隣でブツブツとひとりごとを話されるとどうです?不気味で、不快ですね。そのような人とは信頼を構築できず、不安になるんです。非日常=狂気が開くんです。こいつ次の瞬間なにをするかわからない。習慣というのは、互いにこのような安心の場を維持する暗黙できているんです。電車内でも通話禁止のマナーもここに繋がるわけです。

日本人にとって、挨拶も同じ深度をもつ習慣です。挨拶をしない人にも不安になる。こいつ腹の中でなにを考えているのか、わからない、薄気味悪い。マナーとは単に合理性には還元できないんです。

キミの理屈では、僕は隣でブツブツひとりごと言われても平気だよ。と、いうことでしょう。もしそうだとすれば、キミも薄気味悪いと思われているからかもしれませんよ。どうですか。


考える名無しさん

たぶん独り言を言わないほうが良いと思って、自分で言わないようにするのはマナーとして成立してるけど、独り言言ってるだけで他人を薄気味悪いとか馬鹿にしてたら、それは最早マナーの本質を見失ってるよ


pikarrr

別に馬鹿にしている分けではない。隣でひとりごとをブツブツ言っている人がいたら、薄気味悪いと思う、別の場所に移るのは普通の行為。

これが表しているのが、見知らぬ人が集まっているだけの場所にも、ちゃんと秩序があるということ。特に誰も意識はしないが、みんなでその場の秩序を、作るように努力している。努力というと大げさだけど、それが習慣というもの。人々が習慣に従う、習慣に身を任すことで自然と場の安心が保たれている。

逆にひとりごとの例が示すのは、この秩序がいかに脆いかということ。ほんの些細なことで崩れる。たとえば電車の隣の人がいきなり殴りかからないと、なぜいえるのか。歩いているときに刺されないといえるのか。そんな保証どこにもない。基本的に安心なんかどこにもない。

みなが習慣に身を任せることで無意識にみなで安心を与える場所を作り出している。キミが挨拶をしないことで、まわりに不安を与えている。キミは挨拶することでなにかを与えるのではない。キミが挨拶をしないことで他人の安心を奪っている。


考える名無しさん

うーんどこか矛盾してる。例えば挨拶しない人を薄気味悪いと避けるお前と挨拶しない人と普通に関われる俺がいて、もしもその人が人を刺そうとした場合どちらを刺す可能性が高いかとゆうと、お前のほうなんだよな

それはたぶんお前のやってることが精神的な過剰防衛に陥っていて相手もお前の行動に対して防衛して保身の上で逆効果になってるんだと思う


pikarrr

その例えば、おかしいな。それではその殺人者は復讐する普通の犯罪者でしかない。今言っている話と全く関係がない。ボクがいっている薄気味悪さは、習慣で考えられない狂人なわけだ。

例えば社内でブツブツいっている人を薄気味悪いと避ける僕とブツブツいっている人の近くにいるキミがいてもしもその人が狂人でどちらが刺される可能性が高いかとゆうと近くにいるキミのほうだろ。

ようするにキミが挨拶をしないことでみんなに不安を与える、安心を盗んでいるわけだ。


pikarrr

みんながそろりそろりと積み上げてる安心の積み木の塔を、キミが挨拶しないことでこわしている。みんなはキミに挨拶をしてもらえないと腹を立ているわけではなく、みんなで懸命に積み上げてる安心の場をこわされて腹を立てているわけだ。

キミになにかをもらおうなんってこれっぽっちも思っていない。別になにもいらないから、俺たちのものを盗まないでくれと思っているわけだ。

めんどくさいと思うかも知れないがそれが日本人の習慣であって、キミも日本人ならそれができるのにしない。キミは意志を持って、みんなから安心を盗もうとしている。なぜか。そこが幼児性なんだよ。

誰かが一生懸命積み上げている努力をみると、なにかむしゃくしゃしてしまう。こわしたくなる。みんなに復讐したくなる子供の弱さ。じゃないのかい。


考える名無しさん

一つ勘違いしてるのは、ブツブツいっている人の近くにいるだけじゃなくてコミュニケーションがとれるとゆうこと。コミュニケーションが取れるとゆうのは相手の気持ちが解ること。

でもお前の場合はマナーが悪いと思う人を全て狂人扱いし永遠に避けるから何を考えているか解らずに怯える。そして避けられた相手は自分を避けたお前のようになりたいと思うはずも無く、お前はむしろ自ら狂人を作り出してしまっている


pikarrr

勘違いしているのはキミの方だな。キミがいっているのは、挨拶する組に対して、あえて挨拶しない組の痴話ゲンカだろう。そんな幼稚な話はどうでもいい。

電車内でブツブツいうコミュニケーションがとれない狂人がいる可能性のこと。ブツブツいっているときに彼がそんな狂人ではないと言えないだろう。キミが話しかけてもいいが、コミュニケーションが成立するまでは、彼が狂人で刺される可能は残り続ける。日常のそばにはいつも狂気の可能性がある。

だからみんな、キミになにかをもらおうなんってこれっぽっちも思っていない。別になにもいらないから、俺たちのものを盗まないでくれと思っているわけだ。


pikarrr

どうもキミがいっているのは、挨拶が必要なことはわかっているが、できない人がいることをわかって欲しい。対人恐怖症や社会にすねて素直に馴れない人。幼児性が高い人とかボクたちを仲間はずれにするな。といっているように見える。

悪いがそんなことはよそのカウンセラーに相談してくれ。今話しているのも、挨拶という習慣が日本人の社会秩序にとっていかなる役割があり、今後も必要か、という高尚な議論だ。


考える名無しさん

だからね。挨拶を広めたいならば腹を立てても何にもならないよ。挨拶しない人に腹を立ててるのを見て挨拶っていいなと思うか。もっと自分から人に接して挨拶っていいなって思わせなくては


考える名無しさん

みんなが挨拶するようになって安心できるようにしたいなら何をすれば良いか。いまお前のやってることは挨拶しない人とは関わらない、挨拶しない人を幼稚だ病気だと言う。これは挨拶を不要と考える人をさらに増やすだけの行動しか出来ていないとゆうこと。自分の行動にどんな効果があるのかもう少し考えた方が良い


pikarrr

だからみんな、キミの親でも先生でもないから、キミがなぜ挨拶しないかなんかまったく関心もない。

だれもキミになにかをもらおうなんってこれっぽっちも思っていない。別になにもいらないから、俺たちのものを盗まないでくれと思っているわけだ。厳しいが社会とはそういうものだよ。


pikarrr

もっと冷たいこといえば、キミが挨拶できようができまいがなんの興味もない。すねるのならよそでやってほしいものだ、というのが本音だろう。

だれもキミになにかをもらおうなんってこれっぽっちも思っていない。別になにもいらないから、俺たちのものを盗まないでくれと思っているわけだ。厳しいが社会とはそういうものだよ。だから挨拶は必要とされ続けているんだよ。


考える名無しさん

盗まないでくれと腹を立てたところで何の解決にもならない。そこで何をするかが大事


pikarrr

挨拶は親と先生に習っただろう。キミのかわりはいくらでもいる。

だれもキミごときになにかをもらおうなんってこれっぽっちも思っていない。別になにもいらないから、俺たちのものを盗まないでくれと思っているわけだ。






戦略としてのあいさつ



考える名無しさん

そう思うならなぜ挨拶で人をひきつけようとせずに、挨拶嫌いを増やすような行為をしてしまうのか


pikarrr

キミにとってあいさつとは、商品交換のようなものというわけだ。良いPRして気持ちよくしてもらえれば、買ってあげでもよい。買ってくれないからと怒ってはもっとかってもらえないだろう。買ってもらえるように努力をしろと。キミは買ってあげる側で相手は買ってもらう側。選択肢はあくまでキミにあり、キミの立場が上にある。

ボクが言っているのは、あいさつの習慣は、ひとりブツブツいうのが、不気味であるという深いレベルで誰もが協力関係に巻きこまれている。キミがあいさつをしないことで回りが負債を受けてしまう。

だれもキミごときになにかをもらおうなんってこれっぽっちも思っていない。別になにもいらないから、俺たちのものを盗まないでくれと思っているわけだ。


pikarrr

キミが言うことは、相手が自分に利益を与えてくれる人ならばあいさつするが、そうでなければしない。功利的、合理的な考えだ。

ボクが言っているのは、あいさつは単純な功利的、合理的なものではなくて、日本人にとって深いレベルで作動する、重要で回避できない秩序維持システムである、ということだ。

そしてボクがいっているのは、単にあいさつをしろといっているわけではない。実際のあいさつの場は無数のパターンがあり、さらにそこに場を操作するという駆け引きがあるから、一概にいえない。

功利的、合理的に姿勢で、あえてあいさつを回避することで、自分の弱さを補うことも一つの戦略ともいえる。しかしその戦略はあまりに幼稚だ。社会的な弱者が使うものだと思うぞ。


pikarrr

ここに再び、最初にもどるだろう。ボクが最近思っているのは、安易に功利的、合理的な価値を口にする若者が増えている。

この考え方は自由で、個人主義的なものだからだ。束縛されたくない。自由に価値を選びたい。お金があればだいたいことはできるんだから、他者と必要以上にかかわりたくない。

しかし功利的、合理的な社会がもつ厳しさへの覚悟がなにもないのに、逃避的に主張する。あまりに幼稚すぎる。生きづまれば自殺しておさらばすればいいのか。次に望むのは自殺する自由か。

あいさつを懐疑しメタレベルに立つならそれもいいだろう。ならばなぜそれをもっと戦略的につかわないのか。

日本であいさつが場の秩序に深いレベルで繋がっていて、自分と切り話せないものならば、逆にあいさつを操作することで、場をコントロールできる。懐疑するならば、そのようなたくましさへつなげるべきではないか。


pikarrr

ただ利便性に流されて、もはや日本人の習慣など忘却した、という振りをするな。場と帰属がつよい日本語がすらすら操れいている人間が、体にしみついたあいさつを忘れるはずがない。あえてあいさつしないということだ。あえて場の空気を悪くしているんだろ。そこに戦略はあるのか。ただ逃げてるだけじゃないか。そんなに人が怖いのか。






中二病とあいさつの回避



考える名無しさん

挨拶をしないだけの人間を狂人だと避けていては場をコントロールできているとは言えないよ

まずお前が挨拶しないことが社会的に許されず幼稚だ。とゆうのはあくまでもお前に挨拶をさせるためのしつけの言葉なんだよ。これが当たり前だと言い聞かす。お前に挨拶できる子になってほしいとゆう思いであえて挨拶しない人を悪者にしてるだけで、なにも挨拶しない人を馬鹿だとか狂ってるとか避けたりする子になって欲しいわけじゃないんだよ


pikarrr

ボクに挨拶をさせるためのしつけ???

話が混乱しているようなので再度、まとめよう。

ボクいっているのは、日本人にとってあいさつというものの深さだ。日本語を母国語としている人にはあいさつの習慣は体に刻まれている。だから日本人であいさつの習慣がない人がいるとすれば狂人だけだ。といって、狂人なんてそういるわけではないので、日本人全員が場に合わせてあいさつする習慣があると言ってもいいだろう。

でも実際にはあいさつしない人はたくさんいる。なぜか。簡単ことで、あいさつの習慣をあえて拒否している。体はあいさつをしようとしているがそれを拒否する。

なぜか。それは社会には様々な場の状態があるので、一概に言えない。戦略的に場を操作するためにあいさつをしないこともあるだろう。ただキミの言葉は気になる。あいさつしてほしいか。あいさつしてあげてもよい。これはおかしくないか。


pikarrr

中二病とはまだ十分に社会経験ないまま知識だけを吸収し、頭でっかちな状態で、世の中は間違っている、この世界に絶対に正しいことはないと、相対主義ニヒリズムで大人を困らせる。論理的にも相対主義は反駁できず居直る状態だ。

ここには大きく二つの傾向がある。一つが「俯瞰的な自己中心的思考」。自分だけが特別で問題外部に置かれる。自分だけ社会という場から切り離され、客観的に社会を見ることができる。すなわち神の目線において社会の間違いを指摘する。ここでは自分だけが社会との関わり、そして間違いへの責任から逃れている。言わばまだ社会経験の乏しい子どもだから許される位置といえる。

もう一つは「単純な経済合理的思考」。なぜもっと合理的にできないのか。これも社会という現場を知らない、経験が乏しい幼稚な思考だ。

このような中二病思考は子供だから許されるものだが、最近、社会経験が少ない大人が増えて、大人なのに中二病な人が増えている。

あいさつをしてあげても良いなどの、キミのあいさつについての考えは、明らかに俯瞰的な自己中心的思考と経済合理的思考が含めて中二病傾向じゃないか。


pikarrr

かといって、ボクはキミにあいさつをしなさいといっているわけではない。キミがあいさつせずに場の空気を悪くして、嫌われていようが、そんなことボクにとってはどーでもよい。

ボクの身近な人ならあいさつをするように注意するかもしれないが、ボクにとってキミの代わりはいくらでもいる。ボクは、キミの代わりがいないキミの親でも先生でもない。

ボクが言いたいのは、再度言えば、日本人は誰もがあいさつの習慣を持つことを原理的に説明してるだけだ。そしてあいさつの習慣がない人がいるといういいわけが、中二病的思考の弱者のいいわけだね、と分析しているだけだ。

キミ対しては悪意は一切ないどころか、興味もない。残念ながら。






経済合理性とあいさつの消失



考える名無しさん

挨拶しないくらいで中二病的思考の弱者とか決め付けるのは良くないよ。結局論理的な根拠が無い意見だからこそ人を蔑まないと。自分の正当性を主張できないんじゃないかな。

まず挨拶を広めたいなら挨拶をしない人に自分から挨拶をしてみよう。たとえ返ってこなくても気にすることは無い。挨拶しない人を馬鹿にすれば馬鹿にするほど、お前のようになりたくないと挨拶を止める人が増えるよ


pikarrr

確かにちょっと保守主義すぎたかもしれないか。説明できるところまで説明してみたが。

日本語を習得している時点で日本人ならあいさつは身につけているとは思うけど、家庭の崩壊、学校のゆとりなどで、あいさつそのもに対する訓練が不十分になっている面があるのも確かだな。その意味ではあいさつの習慣がない子供が増えているというのは、あたらずとも遠からずかもしれない。

これは単に西洋化によって日本的儀礼が解体しているとはいえない。西洋はしつけは厳しいし、自己としての自立を求められるから。日本では西洋化の経済的合理性だけが導入されて、日本的な儀礼を解体したのはいいが、西洋的な規律は導入されないままになっている。


pikarrr

再度言えば、日本人はハイコンテクストな習慣を儀礼化することで、「なあなあの甘え」を抑止してきた。日本人がいまも形式的儀礼社会であるのはこのためだ。これに対して、「もう挨拶いらないだろう」とは、儀礼なくても社会秩序は保てるだろうということを意味する。なにによってか。資本主義的な経済的合理性によってである。いまの日本は経済的に成功し、経済的な合理性によって社会秩序が維持されている面が高い。ようするに「礼儀とかいうな、結果を出せばいいんだろ。」ってことが、挨拶を疑う可能性を生んでいる。

要するに
このような経済的合理性にのみ秩序を求めることで、人としてのしつけや訓練が緩んで甘え社会になっている。甘えは子供だけではなく、大人にも広がっている。

そしてこのような甘え社会がいまでは日本の経済を閉塞させている面がある。日本経済の問題として人材の流動性が低いことがあげられてる。正社員の既得者を守る、社内失業者の保護する。これによって若者が正社員ではなく、賃金が安い非正規社員になる。当然、会社も彼らにあいさつなどのしつけをもとめない。マニュアル通りに動いてくればいいわけだ。


pikarrr

このような状態で、若者にあいさつを求めるのは酷かも知れない。逆に社会としてはあいさつをできない方が都合がよいともいえる。その方が同情せずに低コストでこき使いやすい。

*1
*2
*3

*1:元ネタ 2ちゃんねる哲学板 「あいさつしてる奴ってなんなの?」 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1262987885/550-626

*2:参照 「なぜ日本人にあいさつは必要なのか 日本語はハイコンテクストな言語」  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100709#p1

*3:画像元 http://www.metro.tokyo.jp/INET/EVENT/2006/06/21g6q100.htm