なぜ日本人はこれほど外来文化にかぶれやすいのか

pikarrr2010-10-25


「同化吸収」


ああ、それで思い出した。和むかどうかっちゅーと、またちょっと微妙な話だけど、欧米系から見た日本の評価の話。俺の友人の飲み友達に、人類文化学の教授がおってな。彼の分析と、同じ研究者として向こうの連中と話しあった結果、欧米が深層心理で日本をどう思っているかって結果が「同化される恐怖」なんだと。

たとえば、日本になにか新しい文化が投入されるとする。普通の国の反応ってのは、大概それに対して拒否反応を起こして反発するか、事大主義のようにそれ一色に染まる二極分化らしいんだけど。日本の場合、「自国の今ある文化と矛盾がないように、ゆっくり吸収して、同一化する」傾向が強いんだって

同じように日本の文化が海外に出た場合、はじめは拒否反応を起こされることが多いんだけど、いつのまにか「COOL!」であると評価をひっくり返し、その後、ゆっくりとその国の文化の中に溶け込んでいく傾向が強いんだと。

この「同化吸収」ってのが、「いつか自分たちが日本の文化に染まってしまうんじゃないか」っていう恐怖になるらしい。基本が「征服と服従である欧米や中国の文化とあまりに違うので、理解しずらいってのもあるみたい。

で、彼らが一番恐れているのが、「それを日本人は意図しないで、ごくナチュラルにやっている」こと、であり、しかも、「その現象そのものはなんら苦痛をもたらさず、むしろ心地よいため自然に受け入れてしまう」こと、だからなんだそうだ。意図を持ってやっているものは、それを見抜いてやめさせることが出来るけど、意図せずに、呼吸をするように自然にやっていることは、やめさせることが出来ない。そもそも、いつの間にか自分たちがそれを望んで染まっていくので、どうしようもない、って

苦痛もなく、むしろ快感の中でスライムにゆっくり消化されていく状態、とかそれに近い妄想を抱かせる恐怖らしい


http://11874.jugem.jp/?eid=2177




外来文化は日本の閉塞した近親相姦的血を薄める


島国日本にはたえず閉塞感がある。だから外来からの文化に飛びつきやすい。そのときに外来文化の侵略への恐怖がなくのんきだ。こののんきさは日本が単に島国なだけではなく、中国と朝鮮という二重の防波堤に守られてきた歴史がある。中国より向こうの侵略者は中国が防ぐ、中国からの侵略者は朝鮮が防ぐ二重の防波堤、その向こうに日本はある。世界へむけた二重の防波堤は、日本に安全と閉塞をうみ、のんきさと好奇心を生んだ。

そして日本の閉塞した近親相姦的血は外来文化によって薄められて健全性を保つ。日本人の異常な外来文化への執着は日本人が生き残るための必然である。




外来文化は世代論として吸収される


また日本人の外来文化吸収にはパターンがある。外来文化は世代論として吸収される。新しい世代が旧世代を否定する形でその時代の外来文化は吸収される。「大人たちは古いんだよ!」というわけだ。また次の世代も新たな外来文化を吸収し前世代を否定する、というように非連続的に、年輪のように積み重なって日本文化はできている。だからいざ日本の文化とはどのようなものか、と問われると答えられない。




日本の古層は日常生活の中で身体伝承される


しかし日本文化がどのようなものか、答えられない理由はもう一つある。世代ごとに外来文化を吸収することで、日本人がそれほど違うかといえばそうでもない。新しい外来文化にかぶれるが、「古層」とでもいうべき文化の連続性は保持されている。

多様な文化がある大陸では異なる共同体へ自らの文化を伝えるために、言語として現前化することが必要だ。そのための言語技術が研究される。すなわち多文化人を言い負かすために理路整然と正当性を主張する方法、哲学もそうして言語研究の一つだ。しかし閉じた島国日本は「言わずもがな」としてコミュニケーションをおこない、改めて言語として現前化する習慣がない。日本人のハイコンテクストは言語でなく習慣として、すなわち身体の同期による伝承を基本とする。このために、日本文化がどのようなものか、と問われても言語化することが困難である。

またここにも日本人が外来文化を吸収しやすい理由がある。古層は日常生活の中で身体伝承されるから、日本人の頭は空っぽだ。だから外来文化を受け入れ、流行りものに次々かぶれても問題ない。




外来文化が古層へ吸収されるときもはや原型をとどめていない


そして文化は古層として身体に刻まれているから、真に外来文化が日本文化として浸透するのは世代を越えて慣習として根付いてからだ。そのときには元の原型をとどめておらず日本風になっている。古くは仏教もそうして神教と同化してきた。

アイフォンはまだガラケー世代を馬鹿にしているが、もう時間の問題だろう。気が付けば、ガラケーに浸食されて忘れられているよ。



芥川龍之介はたくさんの短編小説を書いていますが、素材から見て、主に、明治の文明開化期、十六世紀のキリシタン平安時代「今昔物語」などに依拠しています。それらの選択は恣意的に見えます。しかし、よく見ると、芥川に、彼が生まれる以前の日本人が、外国の文化や思想をどのように受け取ったかという問題を検証しようとする一貫した意思があったように思われるのです。

それを明確に示すのが、「神神の微笑」という作品です。これはいわゆるキリシタンものの中で最も重要な作品です。ここには特に筋のようなものはありません。主人公、イエズス会の宣教師オルガンティノは、日本の風景を美しく思い、キリスト教の広がりにも満足しているのですが、漠然と不安を覚える。「この国の山川に潜んでいる力と、多分は人間に見えない霊と」戦わなければならないと、彼は考える。彼はしばしば幻覚におそわれるのですが、そのなかに老人があらわれます。彼は日本の「霊の一人」であり、日本では、外から来たいかなる思想も、たとえば儒教も仏教も、この国で造り変えられる、と語ります。《我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。》P62


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228


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