なぜ数学の普遍性は慣習によって支えられているのか 

pikarrr2010-11-24

足し算と利便性


たとえば、2人で足し算を解いている。34+25=59、124+12=136・・・と同じ答えであるが、235+23=?と問われると一人が258と答えたところ、もう一人が3と答えた。明らかに間違いだと思うだろう。しかし258と答えた人は自分が「絶対的」に正しいことを証明することはできない。もう一人は似ているようで異なる「規則」に従っていたのだ。

キミはいやこの話はおかしいというかもしれない。なぜなら235+23=とは「数える」ことだ。ここに235個の石ころと23個の石ころがある。それを混ぜて、数えると258個になる。これは絶対的な規則ではないか!

しかし「数える」という「規則」がもう一人と同じと言えるだろうか。たとえば235+23=3と答えた人が別の惑星の人だったとする。その規則が、他の惑星の人々と共有しているとなぜ言えるのだろうか。その惑星の人々は異なる数え方をする。そして数えると5個になるのだ。

でもやはりおかしいとキミは言うだろうが、「数える」という行為は、どう考えても、235+23=258だろうと。これは正しいかも知れない。しかしここですでに「慣習」が入っているのではないだろうか。そこでは漠然と、235+23=258が、人間の生活における利便性を考慮した「数える」という行為が前提になっている。

235+23=3と数える世界は想像できないし、人間の生活習慣に適していない、ように思う。しかし別の惑星の人の身体的な特徴や、生活環境において、235+23=3は利便なのである。




公理系という仮定

公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系という。・・・公理とは他の結果を導きだすための議論の前提となるべき論理的に定式化された(形式的な)言明であるにすぎず、真実であることが明らかな自明の理が採用されるとは限らない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86

数学は、ペアノの公理などの公理系を前提としている。公理は仮定でしかない。この惑星では、地球の数学とは異なる公理が使われていた。地球の数学の公理が絶対ではなく、他である可能性はある。その公理の数学では235+23=3なのだ。

さらに実はキミがいるのはその別の惑星だとする。キミは、235+23=258と当然答える。これが宇宙の絶対法則のような自信をもって。するとその惑星の人々は、キミの頭が狂っていると考える。なぜなら彼らも235+23=3が宇宙の絶対法則と考えているからだ。




幼児学習の不可逆性と、生活環境という外的な記憶


慣習は利便性だけで決まるわけではない。ほんとうに歴史的な偶然によって決まることもあるし、発明者の私情から決まることもあるだろう。それが、社会の中で人々に訓練され伝わることで、慣習となる。

このようにいうと、そんな曖昧なもので社会ができるいるのか、と考えるが、人間行為の中でもっとも「普遍性」をもつのが慣習だ。慣習以上の安定な普遍性を見出すことが人類の夢だがそんなものは存在しない。慣習の普遍性は決して変わらないということではないが、慣習の「普遍性」「空気のように」あまりに当たり前すぎてそこに規則があることさえ、気が付かないことで支えられている。

慣習が「普遍性」を持つのは、いかに慣習が訓練されたかを考える必要がある。それは幼児における学習の不可逆性である。白紙の幼児にとって一瞬一瞬が慣習の訓練である。訓練していることさえも、意識しないうちに吸収していく。だから大人になったときにはあまりに当たり前になる。たとえば幼児のときに一度すり込まれた母国語は白紙にして新たな言語を母国語のように慣習化することはできない。

そして幼児のすり込みだけではなく、このような慣習の普遍性は環境によって補完される。大人になっても周りの人々が母国語で話し、様々な表示や本など人々は母国語の海の中で生活することで慣習に導かれている。

人間に刻まれた慣習を内的な記憶だとすれば、生活環境に外的な記憶である。特に外的な記憶は物理的に刻まれている。人間の寿命を遙かに超えて記憶をとどめて、人々を慣習へと導き続ける。




「数学は自然の娘ではなく技芸の娘」


ユークリッド幾何学は、ユークリッドの公理をもとに構築されている。そしてユークリッドの公理は建築方法からきているという説がある数学という慣習は太古から外部記憶として人々を慣習化している。たとえばピラミッドを見るだけで幾何学的な慣習がすり込まれる。たとえば数学が物理学として世界を記述できるのは、人が世界と関わる方法と数学がその起源において慣習として近接している面がある、からではないだろうか。

円とは円周と呼ばれる一つの線に囲まれた平面図形で、その図形の内部にある1点からそれへ引かれた全ての直線が互いに等しいものである。(ユークリッド「原論」)


杭は地表に点の印をつける。それに結びつけられた綱は幾何学における最も単純で最も重要な二種類の線、すなわち直線と円とを描く。直線は単に綱を二つの点の間で引っ張るだけでできる。この操作のイメージは今なお多くの近代語に固有の「直線を引く」「垂線を引く」という表現に残っている。第二の線である円は二点のうち一点を、固定したもう一方の点のまわりに回転させることによって得られる。

これらの二つの操作を(ユークリッドの)「原論」における定義と比較するならば、完全でないにしても、ある種の対応が透けて見える。それは確かに自然界の物体との対応よりはずっと明確である。

・・・このようになると一つの仮説を立てることができる。それは、数学の対象は現実の対象からの抽象に由来し、それらに独特な特徴を記述するものではなく、種々の手続きの対象化のプロセスに由来する、という仮説である。数学の対象は人間の独立な外界の現実に起源を持ち、その物質的不純さを純化した本質を表現するものではなくて、人間の操作の形式化するものなのだ。・・・現実の所与のものから出発するのではなく、技術における操作から出発して行われるのである。数学は自然の娘ではなく技芸の娘なのだ。P27-32


「数はどこから来たのか―数学の対象の本性に関する仮説」 Enrico Giusti (ISBN:4320016203)


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