世界宗教史1〜4巻 ミルチア・エリアーデ その2

2 ギリシア宗教

第十章 ゼウスのギリシア宗教


ユダヤキリスト教的見地からすれば、ギリシア宗教は悲観主義をその特徴としているように思われる。人間の存在は本来的にははかなく、苦しみ多いものなのである。・・・ギリシア人が人間の運命のかはなさを意識したとき、悲観的な見方が決定的に彼らを捕らえた。一方では、人は厳密な意味では神の「創造物」ではない、したがって人間にとっては、祈りにによって神々と「親密な関係」を樹立できるなどとは望むべくもない。他方、彼は自分の生命が、運命によってすでに定められていることを知っている。

この悲観的な見方は、ギリシアの宗教的精神がもつ創造力を抑圧するどころか、人間の条件の逆説的な再評価を促す方向に働いた。神々が人に限界を超えることを許さなかったため、人はついにみずからの完成態を、したがってまた人間の条件自体の聖化を実現するにいたったのである。換言すれば、彼は「生の歓び」がもつ宗教的感覚、愛欲の経験や肉体の美しさが有する秘蹟的価値、また行進、遊技、舞踏、歌唱、スポーツの試合、見世物、饗宴など集団的で組織的なあらゆる娯楽の宗教的役割を再発見し、十全に開花させるにいたったのである。・・・しかし何よりも強調されねばならないのは、現在という時の宗教的な価値づけである。現に存在すること、時間の中に生きることという単純な事実がある宗教的次元をもちうるのである。

人間の有限性や「あたりまえ」な存在の「凡庸さ」を聖化することは、宗教の歴史のなかでは比較的よくみられる現象である。しかし人間の「限界」や与えられた「状況」、それはどんな性質のものであれ、の聖化がその高みにいたり、みずからの文化に深い影響を与えたという点では、紀元後の第一千年紀における中国と日本が特筆される。ちょうど古代ギリシアの場合のように、この「自然与件」の意味変化は、独自の美学の成立としてその姿を示しているのである。125-130


世界宗教史2 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫)  ISBN:4480085629

コメント:ギリシア思想が、現代につながるプラトン形而上学哲学を生み出すのは、そこに人間主義があったためだろう。ギリシアの神が人間臭い神であり、人間存在が神の「創造物」ではなく、神と争う独自な存在であったためだろう。神に守られない悲観主義が逆に「生の歓び」を生み出した。エリアーデがこれを中国、日本の自然主義的美学につなげているのは面白い。中国、日本の強い神をもたず、現世主義、自然主義があるといわれる。ギリシアには同様な傾向ががあったのだろうか。この

エクスタシー体験は、単に魂の自律性についての確信ばかりではなく、神との神秘合一が可能であるという確信を強めた。エクスタシーによって実現される魂の肉体からの分離は、一方では人間の根源的な二元性を、他方では「神格化」によって、純粋に精神的な死後の生が可能になることを示した。魂の死後の存続についての、あいまいで不確かな形でのアルカイックな信仰はしだいに変容し、最終的には輪廻や霊魂の不死についてのさまざまな概念を生んだ。そういった考え方に道を開いたエクスタシー体験は、かならずしも「ディオニュソス的」(つまりオルギー的)なものではなかった。エクスタシーはまた、ある種の植物や禁欲、苦行(孤独、菜食、断食など)、あるいは祈りによっても可能だった。オルフェウス教の名で知られる宗教的行為や観念がギリシアで発展したのも、そういった環境においてである。P235


世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085637

コメント:呪術はエクスタシー体験を基本とする。そこから魂の分離、心身二元論の元があるというのは面白い。しかし日本などを考えた場合に、呪術が必ずしも心身二元論へ至らっていないように思う。心身二元論的思想へつながるにはもう一つ要因がいるのだろう。それは祭司層から、庶民へ広がることで、輪廻が因果応報のような個人主義としてつながる必要があるのではないだろうか。エクスタシー体験の民主化は、インド、ギリシアなどで起こっている。日本では起こらなかった?

第二十二章 オルフェウスピタゴラス、新たなる終末論


南イタリアクレタ島の墓で発見された、すくなくとも前五世紀に溯る金の板に刻まれた詩・・・には貴重な指示が含まれている。「黄泉の国の棲みかの左には泉が見いだされ、そのそばには白い糸杉が生えている。この泉にあまり近づきすぎてはいけない。かわりに別の泉を見つけなさい。その思い出(ムネモシュネ)の湖には冷たい水が湧き、番人たちがそこで番をしている。番人に向かって、「私は大地と星空の子供で、それはあなたも知っているはずだ。しかし、私の喉の渇き、死にそうだ。思い出の湖から湧きでた冷たい水を、すぐにいくまいか」と言いなさい。そうなれば、番人たちは聖なる泉の水を飲ませてくれるから、そうなれば他の英雄たちとともに権勢をふるうことができよう。」

この金の板の宗教的な重要性は、ホメロス的な伝統において記録されたものとは異なる、魂の死後の生存についての観念を示しているという事実にある。おそらく、ここにみられるのは地中海やオリエントのアルカイックな信仰や神話であり、長いあいだ「民衆のなか」、あるいは文化的辺境のなかで保存され、ある時点から、「オルフェウス派」やピラゴラス派をはじめとする終末論の謎にとりつかれたすべての人間たちのあいだで、一定の評価をかち得るようになったものなのであろう。

しかしそれ以上に重要なのが、「魂の渇き」についての新しい解釈である。死者の渇きをいやすための葬儀における献酒は、多くの文化において記録されている。「生命の水」が英雄の復活を保証するという信仰もまた、神話や民間伝承にひろくみられる。ギリシア人は死を忘却と同一視し、死者とは過去の記憶を失った者だと考えていた。・・・しかし、記憶と忘却の神話は、輪廻の理論が導入されることによって変化していく。レテの(湖の)機能は逆転し、肉体を離れたばかりの使者を迎えいれ、地上における生存を忘れさせてやる必要はもはやなくなる。反対に、レテは転生して地上にもどる魂から、天上における記憶を抹消する。こうして「忘却」はもはや死ではなく、生命の復活を象徴するようになる。軽率にもレテの湧き水(「忘却と悪に満ちた」とプラトンはよんでいるが。「パイドン」)を飲んだ魂は転生し、新たな生成のサイクルのなかに投げこまれる。ピタゴラスやエンペドクレスをはじめとした輪廻の教義を信じていた人間たちは、前世のことを記憶していると主張するが、要するに彼らは、あの世における記憶の保存に成功したということなのである。(注 記憶の鍛錬や修養はピタゴラス派の諸集団においては重要な役割をはたした。)P257-260


世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085637

コメント:西洋哲学はプラトンに始めると言われるが、プラトンの主要な思想、輪廻、想起説、イデア論ピタゴラス派からの影響と言われる。ピタゴラス派の輪廻思想がどこから来たのかはわかっていないが、インド、エジプト、イランなどの影響を受けていることは確かだろう。逆に言えば、現代につながる心身二元論プラトンピタゴラスをたどり、古代宗教によって成熟された思考といえる。

第二十二章 オルフェウスピタゴラス、新たなる終末論


アレキサンダー大王以降、世界の歴史像は根本的に改められた。古くからの政治的、宗教的な構造、都市国家とその祭儀制度、「世界の中心」や範型を保持するものとしてのポリス、ギリシア人と「異邦人(バルバロイ)」とのあいだの決定的な差異についての確信をもとにした人間観、こういったすべての構造は崩壊する。それに代わってしだいに幅をきかせていくのが、「オイクメネ(無人地帯と対立する人の住む地帯)」の観念、「国際主義的」で「普遍主義的」な傾向である。抵抗はあったものの、人類の根本的な統一性の発見は避けられないものであった。

アレクサンダー大王によって始まった歴史世界の統一は、ギリシア人の大規模なオリエント地域への移住や、ギリシア語とヘレニズム文化の伝搬によってはじめて実現された。共通のギリシア語(コイネー)は、インド、イランからシリア、パレスティナ、イタリア、エジプトにわたる地域で話され、書かれるようになった。古代の都市であると新しく建設された都市であろうと、ギリシア人は神殿と劇場を建て、ギュムナシア(体育訓練場)を設けた。ギリシア型の教育は、しだいにアジア全体の裕福な特権階級に採用されていった。ヘレニズム世界の端から端まで、「教育」や「知恵」の価値と重要性が強調された。教育、つねに哲学に基礎をいていた、は、宗教的ともいえる魅力を発揮した。社会発展の手段や霊的完成の手だてとして、教育がこれほど求められたことは歴史上かつてないことであった。

最近の哲学、まずキプロスセム人であったキティオンのゼノンの創始したストア学派、またエピクロス犬儒学派(キユニコス)の理論が、オイクメネのすべての都市にひろまった。ヘレニズム的啓蒙主義」とよばれるものによって、個人主義と同時に国際主義が促進された。ポリスの退廃は、個人を大昔からの市民的、宗教的な秩序から解放したが、その一方で個人に、神秘的で巨大であるがゆえに恐ろしい、宇宙にける孤独と疎外を示した。ストア学派は都市と宇宙の同一性を示すことによって、個人を支えようと努力した。・・・その社会的な出自や地理的な状況を問わず、すべての人間はコスモポリタン、同じ都市、つまりは宇宙の市民、であるという考え方をひろめたのはストア学派であった。

ストア派の・・・ゼノンとその弟子たちによれば、・・・宇宙は「知恵の満ちたいきものとしてとらえられている。そして、賢者はみずからの魂のもっとも深い部分において、宇宙を動かし、支配しているロゴスをみずからも所有しているのを発見する(最古のウパニシャッドを想起させる観念)。したがって、宇宙を理解し、受けいれることによって、人間は神との同一化を実現し、みずからにふさわしい運命を自由に選べるのである。

世界や人間存在が、まえもって厳密に定められた計画にのっとって展開するのは事実であるが、徳を養い、義務をはたし、神の意志を成就するという単純な事実によって、賢者は自分が自由であることを示し、決定論を超越する。自由(アウタルケイア)とは、魂の不死性を発見することにひとしい。世界や他人に対して魂は不死身で、自分を傷つけることができるのは自分以外にはない。このように魂を高く評価することは、同時に、人間の根本的な平等を宣言することである。しかし、自由を獲得するためには、人間は感情から解放され、すべてのこと、「肉体、財産、栄光、書物、権力」、を捨てなければならないが、それは、人間が「みずからの欲望すべての奴隷」であり、「他なるものの奴隷」だからである。財産ならびに欲望=奴隷という等式は、インドの教義、とくにヨーガや仏教を想起させる。同様に、エピクテトスの、神に向けての、「私は同じ理性を共有している。私はあなたとひとしいのだ。」という叫びは、無数のインドの類例を思い出させる。インドと地中海の形而上学や救済論の類似性は、キリスト教紀元前後の二世紀間にさらに増大することになる。P272-277


世界宗教史3 ミルチア・エリアーデ (ちくま学芸文庫) ISBN:4480085637

コメント:アレキサンダー大王以降、あるいはそれ以前にもあったように思うが、インド、オリエント、エジプト、地中海の地方では絶えず大きな交流があった。その中でのひとつの思想として、魂の輪廻を元にした心身二元論、そして形而上学的な知の探求が進んだ。ギリシア思想の成果のその成熟のひとつだろう。