自由競争の隣人との交換と、キリスト教の隣人愛  古代・中世西洋史観 

pikarrr2012-10-07


仏教の抽象性


精神性の系譜を考えると、いくつかの跳躍、遷移点がある。たとえば仏教以前にすでにインド宗教は成熟していた。宗教の基本は豊穣を祈る呪術的な自然宗教である。自然宗教は強さがなく、人々の生活慣習の中に埋め込まれていた。その中からインド宗教は生活慣習を越えて精神性を求めて多くの人々が修練に挑む。ウシャニパッドの形而上学など、世界的にも突出して高い抽象性をもった。

この時代に一般の人々が労働から離れて精神修養に専念できるということがすごい。インドの温暖で豊かな自然環境に支えられているのだろう。高い抽象性はその後のオリエントや西洋の思想に多大な影響を与えた。




ユダヤ教の強い宗教


キリスト教へと続くユダヤ教は特殊な宗教である。豊穣を祈る呪術的な自然宗教を元にする土地に根ざした豊かな人々に対して、その周辺で虐げられたユダヤ人という砂漠の民は、自然宗教を嫌い、独自の一神教、明確な律法という「強い宗教」を作り上げる。キリスト教はその後この強さを引き継ぐ。

しかし実際にユダヤ教がいつ「強さ」を手に入れたか、議論がある。バビロン捕囚により民族がバラバラになったときか、またヘレニズムの影響があると言われる。すなわちギリシア思想の抽象化の中から生まれたプラトニズム=1者などの思想の影響である。旧約聖書の成立はその時期まで続いている。

ギリシア思想はその後、ローマ時代に入って、ネオプラトニズムとして1者の思想をより明確にするが、ここには逆にユダヤ教キリスト教の1神教の影響があるとも言われる。すなわちその始めからギリシア思想とキリスト教は影響しあって発展する。




ギリシア思想の抽象性への飛躍


ギリシア思想の特徴はその抽象性にある。その源泉のひとつであるピタゴラス教団では数理神学といわれるように数学を世界の理想像とした。ギリシア以前に算術は発展していた。高度な建築技術には高度な算術が必要だったし、また自然を管理するために天文学などその周期性は数字化されていた。

しかしピタゴラス教団の特徴はこのような具体的な算術から数学という抽象性へ飛躍したことにある。数学という抽象化された世界が存在すること。それは輪廻転生、生まれる前、死後の魂の理想世界である。現実世界は理想世界をモデルとした不完全な世界である。

抽象に理想を求める思想はその後、プラトンイデア論)に引き継がれ、西洋思想の一つの源泉となる。形而上学という抽象性の洗練は世界の根本的な原理に行き着く。それは当然人知を越えた1神的な世界である。たとえばニュートンが起こした革命はまさにピタゴラス教の回帰といえる。現代人もこの世界が抽象的な数学で記述されることに驚き、一つの真理として「信仰」している。

このような具体性から抽象性への飛躍は、これがどこから来たのか、わかっていないが、抽象性と輪廻転生からインド宗教の影響は考えられる。またオルフィック教の影響も言われている。現代では当たり前のように感じる抽象性であるが、世界的にもかなり特殊な思想である。建築など実用的な算術の発展からは決して生まれない。そこに美学が必要である。数学体系の美しさに魅せられ、のめり込むように信仰するエクスタシー体験によってしか飛躍はなかっただろう。




ヘレニズムのヒューマニズム


このような抽象性の思想はいくつかの精神性を生み出す。一つはプラトニズムに見られるように抽象化の先に理想の1者に到達する。このような考えはユダヤ教キリスト教などの1神教、さらにキリスト教神学へ大きな影響を与える。もうひとつは逆にいえば1者以下は同じであるという個の思想、ヒューマニズムへつながる。ギリシア時代は奴隷制の時代で現代のヒューマニズムとはかけ離れているが、これらの思想がアレキサンダーの世界帝国とともにヘレニズム文化として広まっていく。

キリスト教ユダヤ教の亜流として生まれてくる中でも、ヘレニズム文化の影響は大きいと言われる。隣人愛というキリストの愛の思想はユダヤ教選民思想を越えて、さらにギリシア思想のヒューマニズムさえ越えて、キリスト教的なヒューマニズムとして虐げられた奴隷や女性も救済する。




キリスト教の正統論争


無数にある宗教の中で、ユダヤ教の亜流のキリスト教ローマ帝国の国教にまで上り詰めるのは簡単なことではなかっただろう。一つは多くの弱い自然宗教多神教、生活慣習に埋め込まれている、明確に戒律化していないなど)に対して、ユダヤ教へ継ぐ強い宗教(1神教、戒律による集団団結など)であったこと。割礼を排除し、ユダヤ民族に限定せず、広く信者を受け入れたこと。キリストの隣人愛のヒューマニズム。キリストの死と復活の物語によってパウロが生み出した贖罪の思想。すなわち人は存在そのものが罪深く、終末に救われるという新たな救済思想。

どちらにしろキリスト教の成功は、ローマ世界帝国のチャンネルがなければ世界宗教になりえなかっただろう。ローマ帝国はこのヒューマニズムで強い宗教を、人々を教育し帝国を統一し続ける方法論として利用しようとした。

このような方法論とするために、コンスタンティヌス帝の時代以降、キリスト教「正統」をめぐる闘争に入っていく。その方法論として用いられたのがギリシア思想である。プラトニズムを継ぎ1者を重視するアレキサンドリア地域や、アリストテレスを継ぎ個別を重視するアンティオキア地域、ギリシア思想的方法論よりも実利な隣人愛を重視するローマなど。単なる机上の論争を越えてそれぞれ地域の宗派の闘争であり、ローマ帝国東西分裂の一因ともなる。




西洋人の心性 個の純粋性


たとえば親は自らの子を特別な気持ちで愛する。見ず知らずの子に同様の愛情を持たないことは当然である。しかし隣人愛の思想とは見ず知らずの子にも自らの子と変わらぬ愛を注げという考えである。こんなことが可能だろうか。キリスト教の神とはそういう存在である。信者一人一人に親子のような愛を注ぐ。このような偉大な神を敬い、目指せということだ。

たとえばキリスト教の正統論争で重視されたのが、キリストとはなにものかということだ。神の子であるから神の下位の存在と考えがちだが、正統とされた三位一体説とは、神とキリストと聖霊が同等であるということだ。そしてキリストとは「まったき人」であり、また「まったき神」であるという。キリストは人類のために自らの死を捧げる。それは神としてではない。「まったき人」としてである。だからキリストの死は尊く、人々はキリストに大きな負債をおったのだ。それが贖罪である。

では人であり神であるとはいかなる状態か。それが大きな問題だ。このアンビバレントは、隣人愛の、人として子に特別に愛情を注ぐことと、神としてすべての人々に等しく愛情を注ぐことにも現れている。キリスト教の根幹の教義である。

このアンビバレントキリスト教の正統論争の中で、ギリシア思想の抽象性を用いることで洗練されていった。アリストテレスプラトンイデア論を引き継ぎ、ある個人と人というイデアの関係、すなわち具体的な個々の多数の存在と、抽象化された1者との関係はいかなるものかを思考した。そして抽象化された1者はイデアのように別世界ではなく、それぞれの個の中にあると考えた。このような思考を用いてキリスト教教義の中で抽出されたのが、具体的な多数それぞれの個に存在する「個の純粋性」である。

このような考えは現代の西洋の倫理思想においても基本である。様々な民族、立場の他者といかに関係をきづくか。それはいかなる他者に対しても等しく尊重すると言うこと。それは人では到達できない領域であるが、そこを目指して繰り返すことが現代の倫理である。ここには「個の純粋性」がある。日本人は個人主義を個人の自由という実利的に考えがちである。西洋人が個人を重視するのはその根底に「個の純粋性」という思想が息づいている。それは自立した責任である。日本人には理解しにくい西洋人の心性だろう




イスラム教圏の台頭


ローマ帝国は俗に言うゲルマン民族の大移動、新たな民族が次々と南下して、混沌、崩壊していく。その後に台頭したのがイスラム教である。東西ローマ帝国を最後に統一統治したユスティニアヌス帝の死と、イスラム教の開祖ムハンマドの誕生が時期的に近いのは象徴的である。

ローマ帝国の崩壊を尻目にイスラム教圏は急拡大し、地中海貿易圏を支配していく。そしてイスラム教圏が拡大の方法論として選んだのが、キリスト教圏からの略奪である。すなわち海賊行為はイスラム教圏の正統な布教活動、経済活動として組織的に行われた。資本主義社会となった現代では正統な経済活動といえば交換であるが、古くから略奪も一つの効率的な経済活動であった。

ローマ帝国崩壊後において、各所を統一する権威はローマカトリックだけとなった。そしてこのような絶え間ないイスラム教圏の脅威に対して、ローマカトリックがとったのが、ゲルマン人の新たな国、フランク王国神聖ローマ帝国として後ろ盾となってもらうことであった。しかしまだ混沌としたヨーロッパ地域は必ずしもローマカトリックの指示に従った訳ではない。有名なカノッサの屈辱など、国家権力と教皇権力は協力しつつ、競合していく。




交易の拡大とキリスト教圏の反撃


このようなイスラム教圏の優勢の中で、キリスト教圏が再び反撃することになるのはなにがきっかけだろうか。一つあげられるのは民族大移動が一段落して、ヨーロッパ各国が国家または封建主義的な地域として成熟していったことがあげられるだろう。その象徴的な出来事が十字軍である。教皇の呼びかけに応えて、組織的にイスラム教圏へ遠征が可能であったのは、政治的、経済的な安定をみられつつあったことによる。

イスラム教圏との闘争を繰り返す裏では、確実に交易が発展しつづけたことがあげられる。特に十字軍の遠征はヨーロッパという田舎へイスラムの洗練された文化を紹介した。ヴェネツィア共和国を代表とするイタリアの海洋商業都市イスラム、そしてインドとの交易によって巨額の富を得るようになる。ルネッサンスがこれらの国々で発生したのは偶然ではない。ルネッサンスという文化革命は豊かな交易による富と、キリスト教圏外からからもたらされるコスモポリタンな文化に支えられていた。

そして増大する交易の富に対して、ポルトガル、スペインなど各国家は新たなインドへの航路を開拓しようと必死になる。コロンブスアメリカ大陸発見や、ヴァスコダガマの世界一周などはその副産物でしかない。やがて増大する交易の富はイタリアの都市の許容をこえる。富の増大は君主を元にした国家単位の巨大な権力として成長していく。富の増大はより強力な兵器、軍事力競争を促し、国家権力闘争の時代に入っていく。これが近代国家の芽生えである。

イスラム教圏がこのような国家権力時代に乗り遅れていく一つの要因は、キリスト教圏ではすでに政治権力の国王と宗教権威の教皇が別であったこと、あるいは自由競争という富の最大化を進めたのに対して、イスラム教圏の略奪(海賊)は経済行為であり、ジハードという宗教活動であり、一体で切り離すことができなかったからだろう。




隣人との交換と、隣人愛


そもそも交易、すなわち(貨幣)交換とキリスト教圏に芽生えた「個の純粋性」には高い相関性がある。ギリシアは地中海交易として栄え、その富に支えられて、労働と結びついて具体性から、非労働的な抽象性というギリシア思想が発展した面がある。ギリシア・ローマ圏、すなわち後のキリスト教圏は流動的な交易圏でもあり、ギリシア的なヒューマニズムにしろ、キリスト教ヒューマニズムにしろ、そして「個の純粋性」にしろ、交易における個の尊重、正確には貨幣(を持つ者)の尊重が背景にある。

交換とはそもそも個対個の関係である。取引相手との信頼関係は重要であるが、絶えず新たな交易相手を開拓することで富は得られる。すなわち隣人との交換である。貨幣交換による経済の発展には相手が誰であろうが、より高く買ってくれる人に売るという自由競争。それが経済を活性化し富を最大化する。すなわち交易が活発になることは、社会の流動性があがり、従来の階級も飛び越える可能性が生まれる

しかしこの隣人との交換を愛とすることで隣人愛は生まれる。しかし愛とは本来より身近な者に注ぐものであり、ここにアンビバレントが生まれる。すなわち飛躍が生まれるわけである。このような意味でキリスト教(圏の人々)はそもそもにおいて交易との相性がよい。現代で言えば自由主義を許容する背景をもつ。たとえキリスト教の戒律で金融業が禁止されていてもだ。




「個の純粋性」の誕生


しかし交易が活発であった地域は西洋圏に限らない。中国でも、オリエントでも交易は活発であった。なぜ「個の純粋性」への飛躍は生まれなかったのか。その違いはなにかということは大きな疑問である。たとえば中国での宋時代に発展した交易は、新たなモンゴル民族国家元では管理、抑圧されることになる。イスラム圏においても交易が国家宗教権力と切り離すことが難しかった。

そもそもにおいて等価交換はとても繊細な行為である。少しでも社会的な関係の格差があれば、優位な条件で交換を進めるだろう。強い者はよい条件を強要する。すなわち暴力が介在する。むしろこちらの方が当たり前である。現代では当たり前の、金の前では誰でも平等であること、誰でも等しく交換すること=「隣人との交換」はとても特殊な行為である。

交易から「個の純粋性」には飛躍が必要になる。ギリシア思想から生まれた抽象性への飛躍、そしてキリスト教の隣人愛のアンビバレンツは単に具体性の延長で生まれるものではなく、美しさに魅せられるという熱い(エクスタシー)体験の1回性によって起こる。


参考:[コメント]古代、中世西洋の歴史本 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20121005#p1
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