なぜ現代日本人の若者は趣味へ向かうのか 日本人の職人気質
日本渡辺京二著「逝きし世の面影」より
これは、明治中期になってからのことだが、アリス・ベーコンはこう言っている。「自分たちの主人には丁寧な態度をとるわりには、アメリカとくらべると使用人と雇い主との関係はずっと親密で友好的です。しかも、彼らの立場は従属的でなく、責任を持たされているのはたいへん興味深いことだと思います。彼らの態度や振る舞いのなかから奴隷的な要素だけが除かれ、本当の意味での独立心をのこしているのは驚くべきことだと思います。私が判断するかぎり、アメリカよりも日本では家の使用人という仕事は、職業のなかでもよい地位を占めているように思えます」。召使が言いつけたとおりでなく、主人にとってベストだと自分が考えるとおりにするのに、アリスは「はじめのうちたいそう癪にさわった。しかし何度か経験するうちに、召使の方がただしいのだと彼女は悟ったのである。
彼女は主著"JapaneseGirlandWomen"においてこの問題をもっと詳しく論じている。「外国人にとって家庭使用人の地位は、日本に到着したその日から、初めのうちは大変な当惑の源となる。使える家族に対する彼らの関係には一種の自由がある。その自由はアメリカでならば無礼で独尊的な振る舞いとみなされるし、多くの場合、命令に対する直接の不服従の形をとるように思われる。家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従って事を運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。日本での家政はつましいアメリカの主婦にとってしばしば絶望の種となる。というのは彼女は自分の国では、自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するからであって、使用人には手を使う機械的労働だけしか与えないという状態になれているからだ。
彼女はまず、彼女の東洋の使用人に、彼女が故国でし慣れているやり方で、こんな風にするのですよと教えようとする。だが使用人が彼女の教えたとおりにする見込みは百にひとつしかない。ほかの九十九の場合、彼は期待通りの結果はなし遂げるけれど、そのやりかたはアメリカの主婦が慣れているのとはまったく異なっている。使用人は自分のすることに責任をもとうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見守ろうとする彼らに、自分をゆだねようという気になる。
外国人との接触によって日本人の従者が、われわれが召使の標準的態度とみなす態度、つまり黙って主人に従う態度を身につけている条約港においてさえ、彼らは自分で物事を判断する権利を放棄していないし、もし忠実で正直であるならば、仮にそれが命令への不服従を意味するとしても、雇い主の為に最善を計ろうとするのだ」。
日本人の職を基本とした体系
現代の日本人労働者の優秀さの一つとして、現場レベルの改善があげられている。現場の労働者は単に命令に従う労働力ではなく、そこに自立的に改善を行おうとする。このような現場力が日本の製造業を支えてきた。このような日本人の労働の自主性は、日本社会の職を基本とした体系による。職を中心に関係性が構築され、階級や職級の差があっても職人として対等に認め合う姿勢にある。それは江戸時代の使用人も、現代の労働者も同様である。
このような特徴は奴隷文化から説明できる。西洋などの大陸では階級が支配関係に強く依存していた。特に奴隷文化に表れている。西洋では奴隷は重要な労働力であった。奴隷は多くにおいて、民族闘争で破れた者たちである。西洋は多様な民族がいて絶えず戦いがあり、奴隷が生み出された。
日本では擬人単一民族のために奴隷制が発展しなかった。日本ではたとえば蝦夷地から奴隷としてつれられてきたり、奴隷はいたが社会全体の大きな労働力を占めているわけではなかった。また戦国時代において、相手を皆殺しにすることはあっても、奴隷にすることはなかった。基本的に民族戦争はなく、奴隷文化そのものが育っていない。
このために労働において、奴隷のような単に命令に従う労働文化がなかった。日本では労働は耐えず、一つの職として、社会全体の中で担う役割であった。支配関係があっても、そこに職としての対等性が残された。農民は自主的に文字を学び、農業書を読み、改善を行い、また地方自治を行っていた。武士も単なる支配者ではなく、農民を管理しつつも、保護した。武士もまた地方政治、行政の機関であり、職であった。それは、大名、将軍でさえ同様であった。
奴隷文化とサービス
奴隷文化の発達は現代にも影響があるだろう。たとえばサービスである、西洋のサービスは対価との相関が高い。航空機などよいサービスには高い対価を払えということだ。西洋では奴隷文化もあり、サービスは富の量、すなわち階級と結び付いてきた。それが、民主主義となった現代でもサービスへのドライさとして対価との密接な関係につながっている。
日本も自由主義経済ではあるが、社会関係をここまで割り切るにはどこか違和感がある。たとえば日本語では「サービスする」という言葉がタダを意味するように、サービスは価格に還元されず、得るもの、与えるものという考えがある。また日本人のおもてなしは価格に還元されない儀礼である。このサービス文化は商人だけのことではない。日本人のサービス文化には西洋のような奴隷文化から継承されたドライな社会関係ではなく、疑似的な単一民族として日本人を互いに尊重しあう気持ちがある。
日本の非農本主義
もう一つの影響として日本の職文化があげられる。日本に初めて導入された律令制は中国唐から導入された農本主義であり、農地の大きさに合わせて、税が徴収された。しかし実際日本は島国であり、農地だけでなく、地方ごとに漁業、加工品など多様な産業が盛んであった。特に海岸線が近いことで、交易が盛んであった。また農民の多くが地方産物として副業を行っていた。室町時代の古くから貨幣が流通し、また識字率が高かった。
職ということはそこに商品の交換が存在する。しかし単に交換は等価交換ではなく、社会全体として尊重と慣用がある。西洋的なプロフェッショナルが対価に対して契約を遵守することを意味するとすれば、日本人の職人倫理は、対価を超えて、社会の役割として全うすることにある。家業を中心に社会が形成されていた。支配制度があったとしても、その根底に職人として個人が尊重される土壌があった。
このような職の体系は、現代も日本人の大きな特徴として残っている。しかし現代の若者は一見、もはや職の体系を遵守してないように見える。
日本人の職人気質とポストフォーディズム
資本主義の合理性に還元されない労働現場での改善は、現代での日本人の労働に職人気質が残っていることを表している。いかなる現場労働でも賃金に還元されない職人的誇りを見出だし自立的に改善を試みる。フォーディズムに改善を取り入れて品質向上を展開する。
このように経済大国となったが、現代の若者の労働意欲の低下はなんだろう。単なる時間労働を越えて、生活まで労働の場とするポストフォーディズム時代にはいったが、ポストフォーディズムは労働の二元化を進める。一方でより高賃金な創造的な知価労働と、低賃金なマニュアル化された時間労働。バイトや日雇いなどの時間労働は、マニュアル化以上の創造的な労働を排除、すなわち職人気質を求めない。日本型フォーディズムのために確保されてきた終身雇用のような日本人の職人気質を活用する安心継続した労働環境は、ポストフォーディズム時代には解体される。ただ創造的労働も流行の移り変りの早さから、いつまで保証されているかわからないのだが。
ただたしかに西洋型ポストフォーディズムに合わせる必要はないのかもしれない。しかし問題は中国など西洋型資本主義の合理性を安い人件費で進める国との競争にいかに勝つかだ。日本型フォーディズムでは、人件費が高く、もはや終身雇用を確保することはむずかしい。低賃金のマニュアル労働はまさに中国の労働者とのコスト競争しているのだ。さらに構造的ないえば、日本ではポストフォーディズムの労働の二極化が世代論になっている。創造的労働が既存正社員世代の既得権益として確保され、マニュアル仕事が若い世代に回っている。
若者の職人気質は趣味へ向かう
たとえば「踊る大走査線」がヒットした要因は日本人の職人気質に訴えた面が大きい。今までの刑事ドラマでは刑事と犯人の対立構図で描かれることが多かった。しかしこのドラマは警察幹部と現場刑事の対立が基本構図になっている。管理者と職人の対立。決して対価に還元されない職人気質の心意気。管理が全面化する中で必死に生き残る職人気質に人々は共感する。その意味でこのドラマの精神性の核になっているのが職人中の職人である「ワクさん」であり、この対立構造の中でその精神性を継承する青島、そして管理官の成長物語が描かれる。またおもしろいのは犯人が若者の愉快犯であることが多い点である。管理社会の中で排除された若者犯罪者と、管理社会野中でも職人気質を賢明に維持しようとする若者青島との対立構図にもなっている。若者が「踊る走査線」に感動するのはまだ職人気質が残っているからだ。
新しい世代の若者にもはや日本人的職人気質がなくなっているとはいえないだろう。若者の世代は労働現場ではマニュアル仕事しかできない鬱憤を、趣味の世界で晴らしている。オタク文化はジャパンクールと呼ばれ世界的影響力を持つまでに成長したが、これらは若者の膨大な非賃金創造的労働による。
このような非賃金創造的労働の成果は世界的にも例がないのではないだろうか。西洋のロックミュージックや、またハッカー文化はいまや世界の産業を接見しているが、現代はネットなど創造的ツールが安価で豊かであるという条件はあるが、ニコニコ動画などの対価を求めない創造場に費やされる時間と労力はそれらの比ではないように思う。
日本の若者はいまの労働環境に順応性して、割り切って、賃金を確保する労働の場と、創造を発揮する労働の場を分けて考えている。この変化は日本人のライフスタイルを大きく変える。かつて日本の結婚は企業の終身雇用に支えられていた。職人として生活を労働に捧げるには、生活を守る妻が必要であった。だから企業は結婚相談所でもあり、若者の交流を促進し、社内結婚を推進する。さらにその後のマイホームから老後の年金まで面倒をみる。すなわち日本の社会保障はこのような企業が担ってきたといえる。しかしいまや企業は終身どころか、そのときに生活さえ報償しない。賃金は一人で生活できるほどに安いので結婚しない。若者の〜離れは、このような旧世代とのライフスタイルの断絶に対応しているだろう。一つの企業に閉じない生活、すなわち企業内の社会関係への興味が薄れ、無賃金労働場=趣味的コミュニティを重視するなど。
過去の遺産で生きながらえる日本人
しかし状況は悪化している。賃金労働場の停滞、すなわち国際的に日本企業の凋落、さらに生産の海外移管、日本での雇用の減少。本来なら若者の活力は停滞するいまの日本企業を乗り越えて、よりクローバルに、またベンチャー企業など自主的な労働場の創造をめざすべきかもしれないが、実情はより趣味的な非賃金労働という内へ向かっている。
問題はいつまでも、このような幸福な二重生活が続くか、ということだ。低賃金でそれなりの生活が確保される環境は今後も確保されるのか。低賃金といっても、海外の貧困とは全然違い生活環境は豊かである。このような安価に手に入る日本の豊かな生活環境は、いままで日本人がコツコツ構築してきた社会インフラに支えられている。電気水道通信道路など公共的インフラだけでなく、コンビニが近くにあること、安価で多様な生活用品が手に入ることなど、高度な流通システムに構築されていることに支えられている。
今まではこのような過去のインフラ遺産に頼ってきたが、インフラ維持には膨大なコストがかかる。原発問題で叩かれる日本の電力会社であるが、一面で世界有数の安定に電力供するすぐれたインフラを構築してきた。最近は問題が価格に集中しているが、電力インフラの安定性が崩れると、日本中の生産の効率が低下する。さらには道路などインフラ建築物の老朽化が問題になっている。企業にしても収益の悪化しても価格をあげられない状況では品質が低下することは避けられない。これも安全なインフラの危機の一部である。日本人は空気のように考えているが、海外から羨ましがられていた安全安心な生活インフラが疲弊しつつある。
だから結局、社会保障、社会インフラの維持など、いますべてが公共投資にむかっている。税収は下がっているのに。そして国の赤字は増え続けている。なぜ日本はギリシアのように財政破綻しないのか。たとえばまだ日本人は、借金以上に特に終身雇用を享受してきた世代が多くの貯蓄を蓄えているからといわれる。これもまた過去の遺産である。そして過去の遺産を消耗している。だから今後も財政破綻がないとはいえないだろう。ただ明るいのは若い世代でも旺盛な日本人的な職人気質は維持されている点だろう。
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