読書 日本人と家

百姓身分と家 大藤修

近世前期までは、死後恒久的な石塔墓標を建立され、戒名を与えられ、位牌を作られて個別に供養祭祀されたのは、上層の家の家長夫婦に限られていた。十七世紀後半以降にあると、墓標、過去帳に記された戒名の数、位牌も急増する。このことは各地の調査で明らかにされているところである。それは、村落においても都市においても小経営体の家が広範に成立し、多くの家が自己の家の死者・先祖を主体的に供養祭祀するようになったことを物語っていよう。中世後期に百姓層の家が形成されるに伴い、家長の名前が「家名」として代々継承されるようになっていたことが指摘されている。この家長名=通名の襲名慣行は、十七世紀後半から十八世紀前半にかけて小農民層にまで広まる。

苗字も家名として生まれたのであるが、同族のシンボルともなったので、家長名の世襲によって自己の家の個別性と世代を超えた永続性を表示しようとしたのであろう。小農民もそれを行うようになったところに、彼らも主体的な「家」意識をもち、家の永続を強く希求するようになっていたことがうかがえよう。それは、自己という存在を先祖から子孫へという時間の流れのなかに位置づけ、家を守り繁栄させていく責任主体としての自覚をもつようになったことを意味し、主体性の形成や人格・思想形成の契機ともなる。家族労働で営む小経営にあっては、家長の統率のもとで家族が力を合わせて家業に励まなくてはならない。勤勉、和合、孝行、倹約などの徳目を生活規範として樹立し、その実践によって自己を規律・鍛錬して、人間としての主体性を確立しなくてはならないという、いわゆる通俗道徳思想が近世中期以降民族の間に定着していたのも、村落、都市を問わず小経営体の家が広範に成立してしたことが、社会的基盤になっていたであろう。

近世の身分制は職能に応じて編成されており、それぞれの職能に励んで国家・社会に貢献することが「職分」(社会的責務・役割)とされていた。そして、この職能は天道によって定められた「天職」であるとイデオロギー化された。小経営体としての家を形成した多くの民衆が、職能を家職・家業として世襲するようになり、それに励んで家を永続させなければならないという責任意識をもつようになったことは、身分秩序を下支えする機能を果たすことになる。

だが一方で、各人が家職に励み職分を果たすことによって国家・社会が成り立っているシステムのもとにあっては、民衆をして、自己の家職の社会的価値に目覚めさせるところともなった。近世中期以降、百姓も町人も自己の家職・職分の価値を強く主張するようになる。それは、上下に序列化された身分制的な職業観や人間観に対する批判意識を胚胎させる契機ともなった。十八世紀前半、そうした民衆の意識動向のなかで、職分論を原理的に突き詰めて思想形成したのが石田梅岩である。彼は、士の職分も農工商の職分も社会への寄与という点では同等の価値をもっており、それぞれの職分は異なっていても、そこには人間としての普遍的な道が存在する、という認識を示した(斉家論)。梅岩の唱えた石門心学は、家職、家業の存続・繁栄を希求する民衆の生活倫理として広く受容される。P25-27


“江戸”の人と身分〈2〉村の身分と由緒 ISBN:4642065679 百姓身分と家 大藤修



万民徳用  鈴木正三著作集1 加藤みち子

職人が質問して言うには、「後世菩提[を願って修行すること]が大切だというけれど、家業を営むのが忙しく、昼も夜も世渡りの稼ぎをするばかりです。 それなのに、どうやって悟りに至るのでしょうか。」

答えて言う。「どの仕事もみな仏道修行である。人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。仏道修行で無い仕事はあるはずがない。一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。仏の身体を受け、仏の本性が備わっている人間が、心得が悪くてすき好んで悪道(地獄・餓鬼・畜生)に入るべきではない。本覚真如の一仏が百億に分身して世の中を利益なさっている。 鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。 武士がなくては世が治まらない。農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。 商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。天地を指した人もいる。文字を造り出した人もいる。五臓を分けて医道を施す人もいる。その種類は数えきれないほど現れて世の為となっているけれど、これらすべて一仏の功徳の働きである。このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えているというのに、この道理を知らずに自分から自分の身を貶しめ、悪心や悪業に夢中になり、好んで悪道に入っているのを迷いの凡夫というのである。 過去・現在・未来の三世に諸々の仏が現れて、衆生則仏成事(生きとし生けるものがそのまま仏であること)を直接にお示しになった。[私たちが]眼に形を見、耳に音を聞き、鼻に香りを嗅ぎ、口にものを言い、[心に]思うことという自からの働きを為す、手自らの働き、足自からの働き、これらはすべて一仏の自らなる働きである。

そうであるから、後世を願うというのは、自身の身を信じることが本意である。本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。 仏には欲心がない、仏の心に瞋恚(しんい)はない、仏の心に悪事はない。このような道理を信じないで、勝手に貪欲を作り出し、瞋恚を出し、愚痴に溜まり、日ごと夜ごとに自我への執着、自我への慢心、邪まな偏見、妄想を主人として、それらに随って苦痛や悩乱の心の休む時がない。 本から備わる自らの本性を失って、一生空しく大いなる地獄を造り固めて、未来永劫の住処としていることをどうして悲しまないのか。これを恐れ、これを嘆いて一大事の志を励まし、万の念を放ち捨てよ。そして、すること為すことの上において、切実に真実勇猛の念仏によって、自己の中の真実の仏を信仰する。そうすると、[修行の成果として]気(機)が熟するに随って、自然に誠の心に至って終に信を得ることが極まる。その時、思わずに無我・無人・無住所の境地に入って、自己の真実の仏が顕現するのである。一筋に信仰せよ、信仰せよ。」P47-49


万民徳用  鈴木正三著作集1 加藤みち子 中公クラシックス ISBN:4121601548




江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 尾藤正英

武士は、知行として与えられた石高に比例して、それぞれ一定の数量の人と武器とを準備し、 戦時にはそれだけの兵力を率いて主君に従軍する義務を負った。これを軍役と呼ぶ。これに対して農民は、保有する耕地の石高に比例して、米などの貢租を負担する義務を負うこととともに、村内の中級以上の農民には、夫役として築城などのための労働力を提供する義務があった。

・・・これらの場合における「役」とは、狭義には労働を提供する義務のことであったが、 広い意味では、その労働の負担を中心として個人もしくは家が負う社会的な義務の全体を指すものとして用いられる。

以上に述べたような「役」の概念が、成立期における近世の社会の、いわば組織原理をなしていたことに着目すると、近世の社会の構造や、またその政治の動きについて、従来の通説とは異なった解釈をすることが可能になるように思われる。 例えば徳川氏の幕府は、自己の権力と維持することを第一義として、対立勢力となりうる朝廷や大名にきびしい統制を加え、また武士や農民・町人にも生活様式の細部にわたる規制を加えて、社会の秩序を凍結状態に置こうとして、 実際にもそことに成功した、という風に、この時期の歴史は説明されることが多い。

しかし支配者の権力意志だけでは、二七〇年に及ぶ平和の維持を可能とした条件の説明としては、不十分であると思われる。むしろ右にみたような「役」の体系としての社会の組織を作りあげ、かつそれを強大な武力と法規との力により安定的に維持することをめざしたのが、この時期の支配者たちの主要な意図であって、それはある程度まで国民全体の要求にも合致するものであったために、その政策が成功し、その結果として政権の維持も可能になった、とみるべきではあるまいか。

近世の「役」の体系に類似したものとして、中世には「職」の体系があったといわれる。「職」とは、本来は官職の意味で、七、八世紀には中国の制度を模倣して作られた古代的な官僚制国家の官職が、その後しだいに私有物化されることによって、 中世のいわゆる封建的な社会組織が形成されたために、その封建的な領有の権力は、「職」の所有という形をとるのが普通であった。これが「職」の体系である。P34-46


江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 (岩波現代文庫) 尾藤正英 ISBN:4006001584




神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈 安丸良夫

民衆の宗教意識は、地域の氏神、さまざまな自然神、祖霊崇拝と仏教、遊歴する宗教者の活動などと複雑なかかわりをもっていた。寺檀制と本末制は、民衆のこうした宗教意識の世界に権力が踏み込んで、民衆の心の世界を掌握する制度であった。宗門改め寺請制が、キリシタン問題がすでにすでに現実の政治課題でなくなった一六七〇年代に、かえって制度として、整備されるのは、その民衆支配の手段としての性格をものがたる事実である。一六世紀末まで、政治権力としばしば争った仏教は、その民心掌握力のゆえに、このようにしてかえって、権力体系の一環にくみこまれた。仏教は、国教というべき地位を占め、鎌倉仏教がきり拓いた民衆化と土着化の方向は、権力の庇護を背景として決定的になった。

だが、江戸時代に仏教がはじめて国民的規模で受容され、日本人の宗教意識の世界が圧倒的に仏教色にぬりつぶされるようになったのは、権力による庇護のためだけではなかった。民衆が仏教信仰を受容するようになった民俗信仰的根拠は、さしあたり次の二点から理解することができよう。

第一は、仏教と祖霊祭祀の結びつきで、これを集約的に表現するのが仏壇の成立である。・・・寺請制・寺檀制と小農民経営の一般的成立を背景として、近世前期にはどの家にも祀られるようになっていた。農村でも都市でも、家の自立化が家ごとの祖霊祭祀をよびおこし、それが仏教と結びついた。そして、家ごとに仏壇が成立したことが、他方で神棚の分立をもたらした、という。

第二は、多様な現世利益的祈祷と仏教との結びつきである。観音・地蔵・薬師などはその代表的なもので、これら諸仏はやがて、子安観音、延命地蔵など、多様に分化した機能神として、民衆の現世利益的な願望にこたえるようになった。P25-27


神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈 安丸良夫 岩波新書 ISBN:4004201039




近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 阿部謹也

ではこの「世間」はどのような人間関係をもっていたのだろうか。そこにはまず贈与・互酬の関係が貫かれていた。・・・「世間」の中には自分が行った行為に対して相手から何らかの返礼があることが期待されており、その期待は事実上義務化している。例えばお中元やお歳暮、結婚の祝いや香典などである。

重要なのはその際の人間は人格としてそれらのやりとりをしているのではないという点であって、人格ではないのである。こうした互酬関係と時間意識によって日本の世間はヨーロッパのような公共的な関係にはならず、私的な関係が常にまとわりついて世間を疑似公共性の世界としているのである。

贈与の場合それは受け手の置かれている地位に贈られているのであって、その地位から離れれば贈り物がこなくなっても仕方がないのである。贈り物の価値に変動がある場合も受け手の地位に対する送り手の評価が変動している場合なのであり、あくまでも人格ではなく、場所の変化に過ぎないのである。しかし「世間」における贈答は現世を越えている場合もあり、あの世へ行った人に対する贈与も行われている。

・・・「世間」は広い意味で日本の公共性の役割を果たしてきたが、西欧のように市民を主体とする公共性ではなく、人格ではなく、それぞれの場をもっている個人の集合体として全体を維持するためのものである。公共性という言葉は日本では大きな家という意味であり、最終的には天皇に帰着する性格をもっている。そこに西欧との大きな違いがある。現在でも公共性という場合、官を意味する場合が多い。「世間」は市民の公共性とはなっていないのである。89-91

「世間」という言葉は本来サンスクリットのローカから来ており、仏教の概念です。否定されるべきものという意味をもっていました。それが長い間に現世的な意味を強めてきたものであり、今でもこの世だけでなく、あの世も含んだ概念となっています。すでに述べたように「世間」には贈与・互酬の関係が貫かれていました。貰ったら返すというこの関係は誰にも親しいもので、日本の社会にもいたるところで見られる関係です。

マルセル・モースの考えにしたがって、私は長い間贈与・互酬関係を呪術的な関係とみなしてきましたが、親鸞に触れた際にこれを訂正し、呪術というヨーロッパの概念を改める必要性を痛感しています。

「世間」の中には贈与・互酬の関係が貫かれています。次いで長幼の序がありますが、これについては説明の要はないのでしょう。次に時間意識があります。「世間」の中で暮らしている人はみな共通の時間意識をもっているのです。欧米では一人ひとりがそれぞれ自分の時間を生きていますが、日本の「世間」ではみなが同じ時間を生きているのです。P140-141


近代化と世間 私が見たヨーロッパと日本 阿部謹也 ISBN:4022618116




「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司

西鶴の町人生活を描いた三つの作品(「日本永代蔵」、「世間胸算用」、「西鶴織留」)にみるかぎり、「うき世」は、概して「あの世」(冥土)にたいする「この世」の意としてもちいられている。・・・いっぽう、「世間」の用法はといえば、これもきわめて現世的であった。仏教用語としての「世間」はとっくに姿を消して、すぐれて人間くさい意味をあらわす言葉となっている。「世間」はもっぱら、より町人の日常生活に身近な社会や、状況の意味としてもちいられているのである。

・・・要するに、西鶴が(永代蔵で)いうには、この世にある願いは、人の命をのぞけば、金銀の力でかなわないことはない。夢のような願いはすてて、近道にそれぞれの家業をはげむがよろしい。人のしあわせは、堅実な生活ぶりにある。つねに油断してはならない。ことに「世間」の道徳を第一として、神仏をまつるべきである。これが、わが国の風俗というものだ、ということである。そもそも商売は、町人にとって生涯の仕事であり、親子代々に伝える家業であった。西鶴は、自分と家業との関係において、家業にはげみ、諸事倹約をまもることの必要性を説くいっぽう、<家業>と<世間>との関係において、「世間」の道徳にしたがうことの必要性を説いているのである。

・・・西鶴の作品には、「世間」を道徳基準のよりどころとするような表現がなんと多いことであろうか。たとえば「世間並に夜をふかざす、人よりはやく朝起して、其家の商売をゆだんなく、たとへつかみ取りありとも、家業の外の買置物をする事なかれ」、というふうにである。P60-66


「世間体」の構造 社会心理史への試み 井上忠司 講談社学術文庫 ISBN:406159852X




日本経済史 石井寛治

労働争議件数は日清・日露両戦争の直後に大きなピークをみせている。政府が1900年に集会及政社法を廃止してブルジョアジーや地主の政党活動の自由を保証する反面、治安警察法とくに第17条によって労働組合労働争議・小作争議を事実上禁止した背景には、労働争議のかかる高揚があったのである。治安警察法は幼弱な労働組合を圧殺したが、労働争議の件数は必ずしも減少せず、1906〜07年には軍工廠(かいぐんこうしょう)・大造船所・大鉱山で大規模な労働争議が続発し、製糸・紡績などの分野でも争議が相次いだ。日露戦後段階の争議は自覚性・組織性において限界を有しつつも産業革命を通じて生み出されたプロレタリアートの成長の到達点をそれなりに示すものであり、それに対応して独占的大経営は企業内福利施設と経営家族主義イデオロギーによる労働者の企業内定着=包摂に力を入れ、政府は工場法制定と大逆事件というアメとムチの政策を打ち出していく。P258

日本経済史 石井寛治 ISBN:4130420399