記号コミュニケーション史(構想)



記号コミュニケーション史

だから私が私であるためには、世界とコミュニケーションしつづけ、「私」という「言語認識上の破れ」を埋めつづけるしか道はないのであろう。そして現にそうしているのであり、それは我々が限りなく同じであり、不完全性さえ共有しあえるからではないだろうか。id:pikarrr:20040308 コミュニケーションという自己構築行為

ここで人類史を、「私という言語認識上の破れを埋めるために世界へコミュニケートしつづけるもの達」の歴史として以下のように分類したい。

  1. パロール(会話)時代 (言語獲得〜前期近代)
  2. エクリチュール(書かれたもの)時代 (前期近代〜ポストモダン
  3. パロ-リチュール(文字会話) (ポストモダン〜現代、ネットスペース〜)

ここでいうパロールエクリチュールの対比はデリダの示した概念的なパロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)の対比をもとにしている。そしてパロ-リチュール(文字会話)とは私が作った造語であり、ネットスペースでの文字会話、たとえばメールや2ちゃんねるのような掲示板などを示している。




1 パロール(会話)時代 (言語獲得〜前期近代)

パロール的他者とは・・・「私は世界とのコミュニケーションによりつくられる。」私は相対化される他者を求めるのである。パロールとは、現前の他者とのコミュニケーションであり、記号消費するとともに、積極的に人格消費する状況を表す。そしてこのようなパロール的世界をもっとも的確に指摘したのがラカンであろう。
ラカンパロール的世界をもっとも的確に指摘し得たのは、ある種当然である。ラカン精神分析家であり、精神病患者に対する現前する他者であったのであり、転移される位置に立っていた。これはパロールを仕事にし、さらには記号未理解よりも心象未理解を積極的に消費しようとしたのであり、人格消費を仕事にしていたのである。「私の欲望は他者の欲望である。」「対象aに見られることにより、私を絶対化してほしいという欲望。」しかしラカン精神科医として、自己を見失った人と対面していたことから、通常においても対象aという超越論的他者を望んでいるかは疑問が残る。



原始集団(村社会)
人格消費を中心に集団を形成する。ここで他者とは、パロール的な現前の他者であり、「顔見知り」である。集団の中で人格消費しあうことにより、言語のゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)は解消されようとする。
封建国家(形而上学)の確立
人口増加により大量の現前の他者が生み出される。大量の現前の他者を人格消費することは、物理的に困難である。このためにゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)によるフラストレーションが発生する。エクリチュールは限られた権力者に独占されている(聖書=宗教者、条文=権力者、形而上学=哲学家)。特権的エクリチュールは「神」を生産する。「神」とは、ねつ造された「対象a」である。そして「神」を頂点とし、「動物」を最下層にした「人間」の階級構造が構築される。そして同じ「神」(対象a)を持った民衆は、他国家(他の神)との未理解を解消しようとして、侵略戦争を繰り広げる。



2 エクリチュール(書かれたもの)時代 (前期近代〜ポストモダン

エクリチュール的他者とは・・・近代における都市には大量の他者が発生する。大量の他者はパロール的な人格消費を物理的に困難にする。他者の欲望は隠され、自分探しという他者の欲望探しへ向かう。そして記号消費を通して、大衆という虚像的な他者が生まれる。人は大衆という虚像的な他者を相対化し自己を見いだそうとし、価値が虚像化する。対象aとは虚像化した大衆といえるだろう。



資本主義社会、マスメディアの誕生、「神」の死
さらに都市化が進められた社会の中で科学革命により引用可能性は複写可能性へ向かう。他者は大量に「生産」される。大量生産された他者の前では「神」という絶対的な「対象a」は埋もれていく。再びゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)によるフラストレーションが発生する。
記号消費社会
マスメディアにより、記号は大量に複写され、氾濫する。記号は散種を大量に生み出し、転倒される。ゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)による大衆のフラストレーションは、大衆に共有された虚像価値を生み出す。id:pikarrr:20040222「ポストモダンというエクリチュール的虚像世界」
記号組織化
転倒された記号の同一性を容器(コーラ)として、散種は培養され、自己組織化され虚像価値(=怪獣)を生み出していく。大衆にとって自己組織化された虚像価値(=怪獣)が「対象a」である。記号組織化とは「対象a」への渇望により大衆が記号を消費しつづけることにより、記号意味が自律的に成長しつづける姿である。id:pikarrr:20040229「記号論的、噂話的 さよならジャック・デリダ
オタク化
大量の他者の発生は、他者との差異に自己価値が持たれる。しかし大量の他者の中で他者との差異を見いだすことは難しい。このために大衆価値は細分化され、末端において差異を見いだそうとする。しかしそこでも見いだされるのは記号消費により生まれた(マニアックな)大衆価値である。例えばアニメオタク、PCオタク、ブランド品オタク、「女子高生」というオタク、という虚像的記号消費である。
大衆の動物化
大量に生産される他者の前で、人格消費は放棄される。大衆は記号消費へ向かい、大衆虚像価値を「対象a」として、ゲーテル的不可能性を満たそうとする。



3 パロ-リチュール(文字会話) (ポストモダン〜現代、ネットスペース〜)

パロ-リチュール的他者とは・・・ネットスペースでは、匿名性をもとにパロール的欲望が顕在化する。掲示板は無数の他者の欲望の残像である。残像化した無数の他者の欲望との相対化によって、また自己の欲望を発信し、他者の欲望と相対化することによって、自己を獲得していく。ここでは対象aは「名無しさん」というネットスペースに外にいるだろうだれかという他者となるのだろうか。



現前の他者の復活
ネットスペースという時間、空間を超越した空間の出現で、擬似的な現前の他者が実体化する。
疑似パロールのゲーム性
ネット上のコミュニケーション(特にテキストベースのコミュニケーション)の特徴は、他者に対する情報はテキストのみという限られた状態にあり、エクリチュールを発信しない限り存在しないという「不安」と、情報が少ない故に伝えたい情報を選別して込めるという「純化」の二面性がある。これはコミュニケーション(議論)を激化させ感情的にさせる面と、直接的に伝わりやすく共鳴しやすい面の確率論的ゲーム性を産む。このようなゲーム性の中でゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)に対するフラストレーションを解消しようとパロール的人格消費が行われ、欲望が顕在化する。id:pikarrr:20040305「ネットコミュニケーション(2ちゃんねる)というゲーム」、id:pikarrr:20040221「2ちゃんねるの記号消費と人格消費」
「名無しさん」の二重構造
「名無しさん」は非空間的、非時間的存在であり、散種による虚像的同じもの性=匿名性を生む。その裏で主体は一時期「名無しさん」となり、エクリチュールを発信することによってのみ実在化する。ここでは「名無しさん」という記号が「対象a」である。
記号消費社会の解体
エクリチュールによるパロールは、大量のエクリチュールシミュラークル、ジャンクを発生させる。この中でデリダ的不可能性は加速させる。エクリチュール時代と同じく、記号は散種を大量に生み出し転倒され同一性が生み出すが、エクリチュール時代のような記号組織化による虚像的価値を生み出すことができない。エクリチュール時代のような記号組織化は、ゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)に対するフラストレーションを原動力にしていたが、すでに擬似人格消費により、フラストレーションは消費されているからである。さらに大衆虚像価値(=怪獣)は解体する。id:pikarrr:20040225「2ちゃんねるという怪獣バスターズ」
ネットユーザーの人間回帰
実社会ではエクリチュール時代と変わらず、大量に生産される他者の前で、人格消費は放棄され、動物化する。しかしネットスペースの中で擬似的ではあるが、現前の他者が顕在化する。このために人は他者の欲望を欲望し、人間回帰する。
中心という解体とその周辺という自己構築
たとえば2ちゃんねるのような解体装置としての中心と、はてなのような自己生産の周辺構造が現れる。周辺では解体された記号(他者)を拾い集めて、ゲーテル的不可能性(言語認識の破れ)を埋めようと、ホームヘージやはてなのような日記という自己を構築する。そして彼らは「名無しさん」という「対象a」に見られることを期待している。「名無しさん」という疑似現前の他者がコミュニケートすること、人格消費(解体される)ことを望んでいる。id:pikarrr:20040224「2ちゃんねるとその周辺という脱構築