自然主義的パースペクティブ(草稿) その1



1 心の進化


意識力

意識を集中する、集中力と言う言葉があります。意識とは強弱ではないかと考えています。実際、人は「意識を集中する」ようなことができます。目の前にあるおいている何気ないりんご、これに意識を集中することができます。そうすると、単なるりんごと「軽く」認識していたものが、細かな模様や、凸凹の詳細まで「見えてきます」。人とその他の動物の意識の違いは、この強弱の能力の差ではないかと思っています。そして、この意識の強さ、認識の能力は、進化してきたのではないか。心の進化というものではないかと言うことです。



存在認識

具体的にどのようなことかを説明します。まず、人もそうですが、生命は基本的に、この世界を「ある」もの、または「ない」ものという存在を基本とし認識しているのではないかと考えています。たとえば単純な視覚的空間認識で考えると、人は部屋がある、床がある、テレビがある、テーブルがある、カーテンがある、窓があるというように、あるものを積み重ねて世界像をつくっていると言うことです。

これは、視覚だけでなく、聴覚、臭覚、触覚、味覚についても人の場合には、視覚に比べると能力が低いですが、臭いにおいがある、音楽がある、足に当たっているものがある、甘いものがある、などの存在認識で世界を構成しているのではないかと考えています。



言語認識

たとえばさらには、言語もこのような存在認識を拡張したかたちで構成されていると考えています。視覚的なものを表す言語は、もの=言語と対応できます。りんごということばと、視覚的なりんご。ただこれがその他、比較的能力が低い、聴覚、臭覚、触覚、味覚となると、ややあやふやにありますが、これも臭いもの、固いもの、甘いもののような、言語にすることによより存在が強調する、存在認識を補強する役割をしています。

そして言語のさらに秀逸なのは、感情的なものなど、内的な生理反応を存在認識化していると言うことです。悲しみ、喜びなどの生理現象を感情へと存在認識化し、さらには、心や、意識、理性、良心などのような、その存在自体があやふやであるが、存在するようなものを、存在するように認識する役割をもっています。

これは言語が、内的なものを開拓する、またはフォーマットするために決定的な役割を果たしていることだと思います。人は言語の発明により、現在に続く、高度に内面を開拓できたといえると思います。そしてそれは人のもつ五感的存在認識を拡張する役割を果たしていると考えられます。



自意識の起源

話を人とその他の動物の話に戻すと、その意識の差は存在認識能力の差によるものではないかと、考えています。たとえば人は部屋の空間を、さきほどのような詳細な存在で埋め尽くせますが、動物の場合、その存在認識が人よりも低く、存在の輪郭が明確でないのではないかと考えます。たとえば、カエルは動くものしか認識しないといいます。それは動くものと、静止しているものの間にしか存在の境界を引けないということです。人は静止していても、細かく視覚したこの世界に多くの存在の境界を引き認識できます。

たとえば、五感は主に外的なものですが、内的なもの、生理現象や、感情、思考的なものは、この存在認識能力の高さによると考えられます。すなわち外部でさえ、曖昧にしか存在を認識する能力のない人以外の動物には、内的なものへこの存在認識を拡張するだけの認識能力、すなわち意識の強さがないといえます。これが人のみが自意識を持ち得ている理由ではないでしょうか。自意識とは、自分の内的なものを存在認識するということではないでしょうか。そして、先ほども示したように、この内的なものを存在として認識するために、言語が大いに役立っているのです。よって言語は、心を作るということだと思います。

まとめると、意識とは、存在を認識する能力であり、これ自体は、動物にも人にもありますが、その能力の高さ故に、人は存在認識を、自分自身の内的へ拡張しえた。これが自意識であり、自意識の発達には、内的なものの存在を認識することを補強する言語が大きな役割を果たしているということです。




2 生命としての人の優位性


「意識とは、存在を認識する能力であり、これ自体は、動物にも人にもありますが、その能力の高さ故に、人は存在認識を、自分自身の内的へ拡張しえた。これが自意識であり、自意識の発達には、内的なものの存在を認識することを補強する言語が大きな役割を果たしているということです。」といいました。

先天性と後天性

言語には心を開拓する役割があるが、これはコミュニケーション全般にあてはまるのである。これはなにを表しているかというと、たとえば人は五感により外部情報を取り込む、すなわち刺激により内部を開拓していくのである。内部は可能性なのである。たとえば運動することにより筋肉は作られて、会話することにより心はつくられていく、経験が内部の可能性を刺激することにより、内部は作られていくようなものが生命システムであり、先天的内部は可能性として存在しているのである。

このような先天性と後天性関係は切り離すことは、ほぼ不可能である。潜在的可能性は、後天的な実働により、はじめて存在するのであり、実働がなければ無きに等しいのである。しかし可能性は有限であることには変わりがない。どんなに人が体を鍛えようが、チーターより早く走ることは無理だろう。

たとえば知能の潜在的可能性を調べるために、猿に人的教育をする研究があるそれによるとチンパンジーなどは人の幼児程度の知能に教育される。これはこれで面白いが、今度は逆に猿のフィールドで人がどこまでやれるか研究するのはどうだろうか。森の中で人は猿ほどうまく生きていけるだろうか



生命の一次元的方向性

意識がこのような量化されるならばそれはハードの問題になる。またそれはさまざまなハードと比較されることになる。たとえばすずめよりつばめのような飛行能力のハード、またりすとぞうを比較した場合などの力に関するハード。それらの様々な方向性のハードは一元的に比較などできるのか?ということである。

知能が高い(意識力が強い)、力学的力が強い、走るのが早い、飛ぶのが早い、増殖力が強いなどのハード能力の優位性を生命はそれぞれ持ち得ている。それがなければ生き残れないからだ。生命とは増殖と新陳代謝システムといわれている。子孫を残す、生きるシステムなわけだ。すなわち生き残り、子孫をのこすために優位なハードは何かということで一元化されるのである。



この一次元方向性は、簡単には時間的長さと、空間的広がり、固体数で評価されるのだろう。人は数百万年間生き残り、地球上をほぼ征服した。いや地球の七割の海、特に海の中へは増殖しえていない。固体数は60億。なかなかの数字である。哺乳類では断トツだろうか。ただ上には上がいる。植物、特にシダ系はすごそうだが、一番はなんといっても細菌系だろう。数億年生存し、確実に地球上を制覇し固体数はほぼ無数。60億固体など、数メーター四方にいるだろう。

人類の未来

将来、人は細菌並に生き残れるのだろうか。それは難しいように思える。まず、人は知覚能力の向上を生存の優位性にもつ生命である。しかしこれだけの知覚能力をもつためには制約される大きさがあるのではないだろうか。たとえば、人と同じ程度の知能を持った、ネズミ、蚊、細菌が存在するのは物理的に可能だろうか。これだけの知能を、持ち得る脳の大きさ。人の脳の大きさというはそういう意味で適当な大きさのように思う。すると、脳を支える体が必要になる。知能が高いといっても、労働はいまも肉体的であり、それなりの体が必要になる。すなわち、人のような知能を保有するためには、人程度の大きさが必要となるのではないだろうか。

そうすると、人程度の大きさをこの地球環境がどの程度養えるかと言うことになる。60億人ですでに飽和状態が問題になっているし、先進国での出生率の低下は、飽和状態への潜在的意識への対応とも考えられる。人に必要なエネルギー消費に対する地球の能力のバランスを考えると、限界も近いように思われ、細菌の無数に近い個体数へ増殖することは難しいだろう。



空間的には海中への進出は不可能ではないが、それはそのような生活空間を作ればということになる。海中の水圧に耐えられるような構造の空間を作るためのコストを考えると、海中への進出は経済的でないように思える。今後も人は陸地で生活するのだろう。もう一つの可能性は宇宙への進出である。火星への移住計画は真剣に考えられている。火星には地中に大きな氷があることがわかっている。

これを溶かし、火星に大気を作ろうということである。これは可能性があると思われる。これは生命的には画期的な試みになるだろうが、人が住む前には、細菌、植物などの環境を形成する生命を先に移住させることになるだろう。

時間的にはどうだろうか。今後、数億年生き残れるだろうか。数億年とは途方もなくながい。細菌は生き延びたわけだが、その間に劇的な地球環境の変化、温暖化、氷河期を経験しているし、定期的に巨大隕石が地球に降って、生命に壊滅的な影響を与えている。このよな状況にも細菌は生き延びてきた。それは無数にいう個体数の数の影響のあるが、細菌には様々な環境に適応した種類がいる。火山口の近くの高温で生きているもの、高い酸性の中で生きているもの、氷に閉じこめられて生き延びるものもいる。システムが簡潔であるからこそ、このような環境変化への順応も早い。そしてわずかが生き延びれば、瞬く間に増殖しえる、高い増殖能力。原始生命とはすでに完成された生命システムなのである。



テクノロジーの危うさ

人は環境への順応力は低い。温度、圧力、大気成分などなど、ある種限られた環境でなければ生きていけない。そして繁殖には時間がかかる。受精から誕生まででも1年かかるし、その後、生態になるまでに10年以上かかる。そして普通、一度に1個体しか出生できない。それをカバーするのが、知能である。環境に対応する能力が低い分、環境を作り出すのである。しかし数億年と考えると、想像も付かない。ほぼ間違いなく、巨大隕石は降ってくるだろう。

しかし人の今後の生存で一番危惧されているのが、人自身の問題である。それは知能が高いという優位性故の、最大のデメリット。すなわちテクノロジーの暴走である。それが言われ出したのが、おそらく核兵器が開発された時からだろう。人は知能が高いが、またその知能を保持するために身体的制約が多くなり、環境変化に対して弱いのである。人はそれを補うためにテクノロジーを発達させてきたわけであるが、そのテクノロジーの力はとても危ういものであり、管理が難しいものなのである。



たとえば、猿は、仲間の猿自身を殺傷することも苦労するだろう。それは肉体による体力になるだろうが、反撃され自分自身が怪我をする、または逆に殺されてしまう可能性がある。しかし人の場合、仲間の人を殺すのは比較的容易にできる。

道具は人を便利にするが、それは簡単に武器にもなる。そして利便性の追求は道具を発達したのだが、それはまた危険性も発達させたのである。それがもっとも悲惨なかたちで現れたのが、世界大戦である。そして人の世界では戦争は終わることを知らないのであり、現在では、ワンプッシュで人類を破滅させるというところまで、危険性は増大しているのである。そしてこの危険性はいまも増大しているのである。遺伝子工学の発達は、さらに便利な道具をつくるだろうが、並行してそれは危険性もつくっているのである。はやりのエコロジーカルなことをいえば、道具の危険性は武器だけでないことがわかる。環境問題とは本質的に人内の問題である。なぜなら環境が悪化して困るのは人だからである。多くの生物が絶滅していけばさらに環境は悪化し、いつか人が壊滅的ダメージを受けることの心配である。人が絶滅して植物や細菌は生き延び、そこから新たな進化が始めるだろう。



すなわち人という生命の優位性である知能の高さ(意識力の強さ)は、生命の一次的方向性である生きる、増殖するというに対して、ある程度の成功は収めているが、細菌や植物のような多くの成功している生命に比べて、必ずしも優位ではないのであり、知能の高さとは、かなり危うい優位性であるということである。