自然主義的パースペクティブ(草稿) その2



3 生命理性

個体性と集団性の秩序性

生命の一次元的方向性は、生きることと増殖することだといった。ここにはある種のバラドクスが存在する。それは、だれにとっての方向性なのかということである。種全体か、集団か、血族か、個体か?これらの視点により個体単位の行動は大きくかわる。

これは個体性の問題である。個体性を強める進化上の変化がいくつかある。まず能動的であること。これは環境からの離脱であり、個体性を明確にする。雌雄生殖であること。これは遺伝的にも独立し、強い独自性、個性をしめす。そして意識力が強いこと。これは外界と切り離した自意識へ至る。生命はこのような個体性と集団性の秩序の中で、生命の一次元方向性を目指している。この秩序を「生命理性」と呼ぶ。生命はこの生命理性により、生命システムを秩序立てているのである。



人の秩序性の問題

たとえば他者を殺すと言うこと例に考えてみよう。人以外の生命においても他者を殺すことはある。しかし人以外の生命にとって殺すとはどういうことだろうか。人以外の生命にとって、生きるとは認識以前の問題、生理である。しかし彼等にはそもそも死という概念が存在するのだろうか。死とは認識であり、知識なのである。すなわち彼等にとって殺しとは、結果でしかない。そこにあるのは利害関係に対する闘争のみである。

そこにはその利害関係はどの程度のリスクをかけるべきかという問題がある。彼等にとって闘争は高いリスクを伴うのである。それは肉体的な衝突である。勝ったとしても自身への被害も免れない。このために彼等の同種間の闘争はバフォーマンス的であり、肉体的衝突の前に回避されることが多い。これは生命的理性につながる重要な知見である。

人の場合にも、不必要な肉体的衝突は避ける。ただ人は死という終了を認識し、また道具という力の増幅器を持ち、知という自分のリスクを下げる方法を知っている。簡単に言えば、人は低いリスクで容易に闘争に、決定的に勝利しえるのである。このような力を持つ個体は、さらに生命の中でももっとも個体性が高い。利己的でありえるのである。



人は生命の中でももっとも個体性の高い生命である。それゆえに人の生命システムには、いくつかの問題が潜んでいる。一つには、人の生命システムは、個体性が高い故に不安定であるということである。
それは自意識というものである。「私はなんのために生まれてきたのか」自意識は個体性を強く認識し、孤立化しやすい。そして不安定である。そのような自意識から見れば、集団性はある種の呪縛とも取れる。人は集団性を強く欲求しているにもかかわらず、個体性を尊重しようとする。そして意識された心は、個人的利益と、集団的利益の間で揺れるのである。

二つ目には、すでに書いた知能の暴走である。知能が高いと言うことは、生存において、自分自身でなく環境を便利に使うと言うことである。しかし、この利便性には、危険性という裏面が存在するのである。

たとえば、猿は、仲間の猿自身を殺傷することも苦労するだろう。それは肉体による体力になるだろうが、反撃され自分自身が怪我をする、または逆に殺されてしまう可能性がある。しかし人の場合、仲間の人を殺すのは比較的容易にできる。道具は人を便利にするが、それは簡単に武器にもなる。そして利便性の追求は道具を発達したのだが、それはまた危険性も発達させたのである。それがもっとも悲惨なかたちで現れたのが、世界大戦である。そして人の世界では戦争は終わることを知らないのであり、現在では、ワンプッシュで人類を破滅させるというところまで、危険性は増大しているのである。そしてこの危険性はいまも増大しているのである。遺伝子工学の発達は、さらに便利な道具をつくるだろうが、並行してそれは危険性もつくっているのである。はやりのエコロジーカルなことをいえば、道具の危険性は武器だけでないことがわかる。環境問題とは本質的に人内の問題である。なぜなら環境が悪化して困るのは人だからである。多くの生物が絶滅していけばさらに環境は悪化し、いつか人が壊滅的ダメージを受けることの心配である。人が絶滅して植物や細菌は生き延び、そこから新たな進化が始めるだろう。

この二つの要因、システムとしての不安定性と知能の危険性において、人の生命システムは、自己破壊する可能性を秘めているのである。個体性の少しの揺らぎが、集団全体と破壊する可能性を持つのである。このような不安な生命システムを持ち得るのは人のみではないだろうか。どのような生命でもよい、猿でも、ミミズでも、ナツメヤシでも、細菌類でも、これらの中で、個体性の揺らぎが、その種全体の、集団全体の破滅につながる可能性があるものがいるだろうか。



合理主義的理性と生命理性

生命は個体性と集団性のバランスで秩序を保っている。これを生命理性と呼んだ。人においてもこの生命理性は当然存在するわけであるが、この生命理性において、その種内の善悪などの観念は消え去る。たとえば、人の歴史は争いの歴史であると言われる。有史以来、世界中で戦争がなかった時期などなかった。多くの人が死に、負けた集団は、殺されるか、奴隷化される。これはナチの行為においても本質的に同じである。強い者が、弱い者を、抑圧する。

そしてこれらが凄惨な行為であっても、そこには必ず、彼らなりの善が存在するのである。全体的に見て、以下に都合のよい、独善的な善であっても、その集団内ではそれは、善とされ、正当化されるのである。たとえば、自爆テロのような行為から異常犯罪者の心理にも。

この点から見て、善と悪とは生命的理性のどこに視点をおくかという種内の主観的な価値観の側面であり、実際に人以外の生命ではこのような善悪という観念が適用されないのでなる。ある猿が他の猿を殺したこれは善か悪か、など愚問である。人の社会における問題は、システムとしての不安定性と知能の危険性において、この生命的理性のみでは、その他生命のように秩序を保てるか疑わしいのである。そのために種内になんらかの抑止的ものを作ろうすることはとても自然な流れのような気がする。そしてそれが合理的理性信仰ではないだろうか。



合理主義的理性という概念の正当性をどのような形で説明されてきたといえば、それは神である。この世界は神に作られたのだから、当然合理的であり、善悪の判断も明確に存在する。そして人は神に作られた存在であり、その他生命よりも神に愛された特別の存在であり、先天的に善なる良心を宿している。
これは西洋的神であるが、世界的にも神への信仰が起こり、その神の存在と共に、善悪の価値基準、すなわち人の行いに対する抑止的効果が表されている。

結局のところ、神の存在が懐疑された現代においても、この根底に流れる世界には善悪が存在するという信仰は、かつての合理主義的理性の方向性を本質的には変わっていないのであり、現代の抑止的効果である法においても、その根底は合理主義的理性を世襲しているのである。



しかし結局のところ、この抑止が成功してきたのかという判断には難しい問題である。合理主義的理性の特徴は、その正当性を神という曖昧な概念におっていた点にある。善悪の価値判断を神が持つとして、それを人はどのようにして知り得るのか、という問題が残るのである。結局のところ、権力者たちは自分自身を神とのトランスファーという位置におくことにより、集団の支配を行ってきたのである。

しかし権力者が、支配の正当化に合理主義的理性を使ったからといって、それが悪いということではない。問題は権力者という一部の個体の個体性の不安定さが、その増幅された個体の力により、生命における根元的な目的である、種の繁栄という方向性から反れようなことが起こることが問題なのである。

再度、説明すると、権力者という個体が、どのような宗教や主義や思想を持つのかということが問題なのではない。たとえば、それはナチスなどが示した優生学的思想、選民族思想であっても、そのような主義自体には悪は存在しない。問題はその権力者に種であり、集団に対する危険性を高めるだけの力が集中し、種の繁栄という方向性から反れような行動を行ったという事実にのみ、生命理性における悪は存在するのである。そして歴史的にもそのようなことは起こったのである。

結局のところ、現在多くの国で進められている民主化というのは、このような権力悪に対する一つの回答なのであろうか。民主主義の本質は、権力者の定期的な交代可能性にある。すなわち権力という増幅された力をもつ権力者の個体性の不安定さを集団が監視し、早期の交代を可能にすることにより、個体性と集団性のバランスを保つというシステム。それが共産主義国においてそのシステムがうまく回らなかったという問題や、国内ではそのようなシステムがある程度成功しているしても、国際的には国間におおけるシステムがまだ構築されていないという問題は残っているのだろうが。



人の社会の秩序性

合理主義的理性はその正当性を神におってきたのであるが、現代において社会の秩序の抑制効果は法において行われているのであるが、その根底は合理主義的理性を世襲しているといったといった。しかし現代の民主主義社会における法による抑止にも限界はある。それは論理的であるが故に確率論的でしかありえない。すなわち社会の中で起こる、様々な個体間や個体と集団との軋轢に対して、確率論的な回答しか与えることができない。しかし大きな集団の中ではそのように秩序を保つことは、仕方のないことであろう。

それゆえに社会秩序の根底は支えているのは、道徳観であり、倫理観であろう。それは、愛情、友情、やさしさ、思いやり、親切などというの曖昧かつ、期待的なコミュニケーションを元にした信頼関係というものである。これらをすべて先天的な生命理性に還元することは、まさに自然主義的誤謬であるが、これらの価値観が有史以来信頼されてきて、いまの社会秩序の根底を支えているという事実からすれば、それが生命種の繁栄のための個体性と集団性の秩序性である生命理性の一面、特にそれは集団性の面であろうが、を根元としているということも出来るのではないだろうか。




4 多階層記憶


この世界は記憶でできている

この世界はすべて記憶で出来ている。それはこの世界の始まりからの記憶である。たとえば、石にはここに至るまでのこの世界からの記憶で出来ている。記憶とは、保存された情報であり、情報とはものをある基準をもって探索された結果、得られる規則性である。すなわち記憶とは、ある基準をもって探索された結果、得られる規則性が保存されたものである。このために情報には、認識者が必要である。認識者がいなければ、なんの記憶も発生しない。すなわち私が存在することにより、この世界は形作られる。これは独我論的立場に私を追い込む。そして何物もそこからは逃れられない。では、そのような位置に私を置くことに「納得」できるのだろうか。



私は多階層的記憶である。

デカルトはこの世界のすべてを疑えても、私は疑う私自身は疑えないということを示した。この「我思う、故に我有り」により私は認識論の原点となった。そして私もまたこの世界の始まりからの記憶である。そしての私という記憶は、多階層的に出来ている。多階層的記憶とは現代科学的事実をもとにこの宇宙の始まりから私に至る歴史を、私の中に内在する記憶としてとらえるものである。

  第一階層 エントロピーの増大・・・・時間(正確には状態変化)
  第二階層 自己組織化 (エントロピーの減少)・・・・物質構造
  第三階層 進化・・・生命 (遺伝子)
  第四階層 進歩・・・文化 (宗教、倫理学、哲学、科学...)  
  第五階層 経験・・・意識



第一階層 エンロトピーの増大・・・・ 時間(状態変化)

古典物理学世界では時間は可逆である。現実にはこのような物理学的可逆性世界はどこにも存在しない。古典物理学世界は理想モデルである。古典物理学世界に欠落しているのは、運動における熱損失であり、ビックバンからはじまったこの宇宙は大局的にエントロピーが増大する方向性を持ってるという、熱力学の第二法則を無視した結果である。

ニュートン力学が信仰化したために、熱力学者により発見されたこの熱力学法則は無視されてきたのである。この世界はエントロピー増大する方向性を持っているということは、この世界が不可逆性であることを示している。このために時間は一方向、過去から未来にしか進まない。ただエントロピーの増大は時間を規定しているわけではなく、一方向に変化していることを示している、方向性があることを示しているのである。相対性理論が示すように、時間は相対的でしかないが、この宇宙ではどこにおいても、時間は逆には流れないと言うことである。

そしてこの熱力学的現象には、アインシュタインら「古典物理学者」が愛した美しい決定論的方程式は存在しない。それは化学反応を想像するとわかりやすいかも知れない。現象的には確率論でしか表せない。これが古典物理学者が嫌った理由の一つである。結局、その古典物理学者も量子力学という確率論によりその美学を否定されるわけだが。すなわち未来は確率論でしかなく、決定することは出来ないのである。



第二階層 自己組織化 (エントロピーの減少)・・・・物質構造

この世界はエントロピーの増大を指向しているにもかかわらず、物質、力、星、そして生命のような、エントロピーの減少する局所が存在するのか。そこには何が介在しているのか。それは神の意志であるのか。その答えが、自己組織化である。エントロピーの極大とは、すなわちランダムであるということだ。

簡単にいえば、この世界はランダムへ向かっている。宇宙空間に、なんの分布もない世界。すべてが均質な世界。その課程で、なんの意志も、意図も必要なく、ムラ、部分的エントロピーの減少現象が発生する確率があることが証明されている。(ブリゴジン 散逸構造論)それが自己組織化といわれるものであり、自己組織化の形態の一つが生命であり、進化であり、進歩であると考えられる。これらエントロピーの減少現象の発生には、大いなる意志など必要としない。



第三階層 進化・・・生命 (遺伝子)

進化とは、環境という外圧による自然淘汰と突然変異という内圧により、生命が変化していくことである。そこには何らかの意図、神の意志は介在しない。そして生命は、進むわけでなく、変化するのである。その意味では、人が進化上の頂点になるというのは幻想である。生命の発生から、生命種は様々に枝分かれしてきた。人はその末端の一つと考えられるのである。



第四階層 進歩・・・文化 (宗教、倫理学、哲学、科学...)

進歩とは、人の意志のもと、人の知識のもと、文明が高度になっていく様を表している。特に人が時間的に進んでいくという進歩思想は新しい概念である。進化論を元に、時間軸的に良い方向に進むという思想が人の文明にも適用された。しかし現在の進化論では、進化は進んでいるわけではなく、変化していると考えられる。



第五階層 経験・・・意識

私は、さらには、生まれてから、体験する。そして私はこのようなこの世界の始まりからの環境を経験したものの記憶を保有した存在であると考える。ここでいう記憶とは、生まれてからの体験を私の脳にとどめるというものではない。

たとえば、私のフィジカルの構成分子は、そのどこかの歴史の中で作られたものであるし、私の体の機能、構造は歴史の中で作られてきたものである。そのような物質的、精神的なものを含めての記憶である。私の耳は、突然の産物ではなく、生物的にその構造として変化して来た歴史を表している。なんらかの歴史的事実として、そのような形をしているのである。たとえば、その一部が現在の私にあまり必要でない特徴であるかもしれない。そして耳を構成しているタンパク質などの構成物質も、その歴史があり、私の耳の記憶の一つとして、いまもとどめている。



再びいえば、私とはなにか。「私とは、この世界との連続的な多階層的記憶である。」故に、様々な命題は、これを前提に検討する必要がある。それは、(この世界始まりからの)歴史的、生理的な検討をおこない、最終的にはこれら記憶へ還元されるのである。この事実をもとに、様々なことが再考する分けである。




5 自然主義的から宇宙論的へ


集団性という自己組織化

私はものそのもはあるといった。それは私がこの世界の一部として自然淘汰として作られた存在であるという事実から、そこから私の心のみが浮遊する存在であることは考えられないからである。簡単にいえば、私は私では完結していない存在なのである。増殖においては、鍵でしかなく、鍵は鍵穴がなければ、鍵として存在しえない。このように私という個体は、その上位の個体の一部であり、また私という個体は、下位の個体の集合体である。



たとえば、このようなことを想像してみよう。あなたの腕を切り落とす。腕は栄養が十分与えられるように、保存する。腕は細胞の固まりであるので、その細胞を殺さないということである。このようにして腕は生き続ける。果たしてこの生きているものは腕だろうか?

これはもはや腕ではないだろう。腕とはあなたという、細胞の集合体の一部、機能としての名称である。生き続ける腕は、腕の働きをしない。それは脳なり、その他からの指令がなければ、機能を果たせない。それが機能というものだからだ。切り落とされた腕は、腕として生きているわけではなく、その中に存在する細胞として生きているのである。新陳代謝し、自己増殖する。あなたはこのような細胞という個体の集合体であり、その個体性と集合性のバランス、秩序性で存在している。



細胞はさらにはタンパク質、核酸などの個体に還元され、それらの集合体と見なされる。またあなたは、集団という個体の部分と位置づけられる。このように、世界は個体性と集団性のバランスを保つ階層構造で形成されている。あなたはその一階層であり、あなたがあなたと思える、自我とは、あなたの階層では、集団性に比べ、個体性がきわめて高いということである。そしてこの自我でさえ、意識力によるものであり、それは神経系の物理量として表される。すなわち神経という個体の集団性のバランスで形成されていると考えられるのである。

このようなフラクタルな構造は、私が提唱する「多階層的記憶 (Multiplex memory)」の第二階層 自己組織化によりあらわされると考えられる。

「Multiplex memory(多階層的記憶)」
   第一階層 エントロピーの増大・・・・時間(正確には状態変化)
   第二階層 自己組織化 (エントロピーの減少)・・・・物質構造
   第三階層 進化・・・生命 (遺伝子)
   第四階層 進歩・・・文化 (宗教、倫理学、哲学、科学...)

ただこれらは物質に還元できるからとしって、機械論、決定論へは導かれない。なぜなら決定論的力学世界は本質的に幻想である。自己組織化とは、熱的な外適応的世界であり、予測不可能なのである。



理性は熱力学的第二法則に対抗する

お風呂のお湯はなぜ、ほっておくとさめるのだろうか。それはこの宇宙全体の法則、熱力学第二法則による。お湯のまわりと温度と均一化へ向かうためである。お湯とまわりの空気は均一になろうと、お湯は熱エネルギーを空気へ渡していく。これは温度の問題だけではない。お湯そのものと空気が均質になろうとする。お湯は蒸発し、空気へ移動する。空気の水分濃度を上げる。空気が十分あれば、風呂はからになり、風呂場は均一な温度、均一な水分濃度の空気で満たされるだろう。



人はこのようなお風呂と同じようなものと考えることが出来る。高温の36度、そしてその70%が水で出来ている。人は生命活動しなければ、人内の水は同じような経過をたどる。人体からは水分が温度が大気温と同じになり、水分は蒸発する。しかし生命活動はそれを阻止する。この宇宙の法則に逆らおうとしている。人の体からは、熱力学の第二法則に従い、絶えず熱が放熱しているし、水分が蒸発している。そして恒温動物である人は、食料、水を外部から摂取し、体の中で熱エネルギーに変えて、放出する分の熱を作り出している。

熱力学の第二法則の影響を受けるのは、熱、水だけではない、体の組織そのものも劣化を免れない。このために劣化した細胞の代わりに、絶えず新たな細胞を作り出している。これが、生命の特徴の一つである新陳代謝である。人以外の生命は、このような新陳代謝のもとになるものを求めて、一日のほとんどを、栄養補給源の確保を費やしている。それがなくなれば、宇宙の熱力学第二法則の力により、生命活動が停止してしまうからだ。生きるとは、一瞬一瞬が戦いなのである。隕石が降ってくる、大地震がくるまで、のんびりしていられるものではないのである。

種は外的な環境要因に対して、繁栄、すなわち安定した生存の確保のために種内の集団性と個体性に秩序を保とうとする。これが生命理性である。また個体性とは、その内部の個体性と集団性の秩序により保たれている。といった。環境要因はさまざまなあるが、その根元においては、このような宇宙の熱力学第二法則という終わることない力への抵抗がある。


この観点にたては以下のように考えることができる。基本と細胞という個体性と見た場合には、単細胞であるよりも、細胞通しが結束してその集団性によって環境要因と抵抗することが、繁栄には優位ではないのか。そして細胞は、個体性を小さくし、集団性を重視した。一細胞は、集団性の秩序を保つために、機能化した。しかし一細胞は、分裂、新陳代謝、また遺伝子情報において個体性を失いはしていない。人はこのような細胞という個体性と集合性の秩序として存在している。

そしてまた、このようにも考えることが出来る。基本を人という個体性と見た場合には、人個人であるよりも、人個人通しが結束してその集団性によって環境要因と抵抗することが、繁栄には優位ではないのか。そして人個人は、個体性を小さくし、集団性を重視した。人個人は、集団性の秩序を保つために、機能化した。しかし人個人は、生殖能力、新陳代謝、また知識情報において個体性を失いはしていない。社会はこのような人個人という個体性と集合性の秩序として存在している。



これは思想的にはあまりに全体主義的ではある。しかしこれが現実である。人は社会の役割として存在している。それは特に現代の高度文明以前においては、その傾向は強い。人は生まれながらに、社会的役割が決定していた。農民の子は農民、貴族の子は貴族。

結局のところ、これらは、個体性と集団性のバランスでしかない。そして現代において、人はより個体性を強めている。この理由は、かつてよりも繁栄の安定性が増したことによるのだろう。豊かになったことにより、集団性の力はゆるみ、個体性が強まったということである。そしてこの豊かさを支えているのが科学技術である。人は、野生動物のように、食料の確保に一日を使う必要がなくなってきた。このように考えると、理性とは、宇宙的熱力学の第二法則に対抗する種内の自己組織化と見なすことができる。



存在という幻影

我々の尊厳たる理性と「Multiplex memory(多階層的記憶)」との関係を、 自己組織化へ還元した。これはあまりに無味乾燥な姿であるかも知れないが、個体性と集団性のバランス において、個体性がこれほどまでに高められた姿、高度な自己組織化の姿 ととらえることもできる。私たちは、宇宙の法則にもっとも反抗的な個体なにかもしれない。

しかしこの自己組織化とは、どこから来たのだろうか。 宇宙的熱力学の第二法則はこの宇宙を支配している。 局所の一点から、急速に広がる宇宙は、エントロピーが増大する方向性をもっている。すなわち、完全なるランダムを目指しているのである。自己組織化の発生の一つは、このようなランダムの中から、ある確率で、秩序が発生するという形で説明されている。 なら生命とは、ある確率で発生した減少ということがいえる。

それについて、個人的なイメージとしては、 極大の集中点が、完全なるランダムへ向かう過程おいて、 熱的なエネルギーの伝搬は、単純な直線的な過程を通らないのではないだろうか。 それは、波の伝搬のように広がっていくのではないだろうか。 そしてその波の振幅が局部的な自己組織化ではないのだろうか。ここまで還元すると、物質、生命という存在とは、 海面に立つ波頭のような幻影とも思えてくる・・・