2ちゃんねるはポストモダンを越えていく 

pikarrr2006-07-03


1 社会的コミュニティから記号コミュニティへ

2 オタクの自己制作性

3 ネットコミュニティの差異化運動

4 2ちゃんねるスタイル

5 2ちゃんねる/大衆

6 2ちゃんねるの二重構造

7 2ちゃんねるを遊星するプログ群

8 つながりへの欲望


<解説>
再掲載シリーズ第一弾。(掲載 2004.4.30〜2004.5.17)2年前に書いたものです。ボクもブログを始めたばかり、ブログが爆発的に普及する前で、まだブログを2ちゃんねるの衛星的な位置において書いています。現在ではブログネットワークは2ちゃんねるに負けないほどにより大きくなっていますし、mixiなどの顕名な場も発達しています。

それでも消費をとおして間接的、虚像的にコミュニケーションしていた人々がネット上で出会えた喜び、そしてネットコミュニケーションのつたわらなさ、もどかしさ、焦りをいかに乗り越えて出会おうとするか、ということでネットが発展してきたことにはかわりがないと思います。2ちゃんねるでは、「フレーミングのゲーム化」によって、ブログでは技術的に(トラックバックなど)距離を保つことによって、そしてmixiではつながりを限定することで成功しています。

では2ちゃんねるポストモダンを越えたのか。ポストモダンは「大きな内部(帝国論)」につながりますが、ネットが物理的にその中にあっても、野蛮人たちが享楽する「新大陸(フロンティア)」を提供していると考えています。特に「電車男」にも見られたように「心」が移住を開始しているのです。(美しい〆・・・)



1 社会的コミュニティから記号コミュニティへ


記号コミュニティ


情報化社会では、複写技術による大量の複写物により、大衆は自己処理可能以上の過剰な情報、価値にさらされる。そしてこのような社会の中で主体としての自己同一性は混乱する。このために主体内部には、世界を簡略化し認識しようとする力が働く。それは情報量の低減、複雑性の単純化であり、主体がそれを求め、マスメディアがそれに答えるかたちで進む。ディアはより大衆に受け入れられるように、単純化しなおかつイメージとしても意味を伝えようとするのである。

そしてこのようなイメージ化された多様な価値の中から選択することにより自己価値は形成されていく。そして情報は社会的コミュニティの他者、現前の他者からでなく、マスメディアから提示される。自己価値はそれを知らない他者とそれを知っている自己の差異化により獲得されるのだが、それはコミュニティの差異化の形をとる。

たとえば「わたしはシャネルというブランドを好きな人」というようにして他者と差異化されるのでなく、「わたしはシャネラーである」と差異化されるのである。シャネラーとは単に「シャネルが好きな人」ということではなく、シャネルが好きな人たちのコミュニティの一員であるということである。ではシャネラーなるコミュニティはどこに存在するのか。それは社会的な明確なコミュニティを形成しているわけではないが、シャネルが好きな個人がそういうコミュニティがあり、それに帰属しているという意識によってささえられている「記号コミュニティ」である。

このような記号によるコミュニティの形成は、情報化と複写技術の発達により、瞬時に大量の複写物が社会へばらまかれて、共時的に大衆が同じ体験をすることが可能になったことによる。同じTV番組を1000万人単位で鑑賞し、同じ雑誌を100万人単位が読むということである。このような大衆共時体験が、記号コミュニティの形成を可能にしているのである。



記号コミュニティの記号意味(シニフィエ


では彼等はどのように記号コミュニティに気付くのか。それは現代では多くにおいてマスメディアからの情報である。マスメディアが「シャネラー」と名付けることにより、「わたしはシャネラーである」、「シャネラーというコミュニティがある」ことに気づかされる、すなわち「シャネラー」というコミュニティが差異化されるのである。そして「シャネラー」とは、単に「シャネルを買う人々」を意味するのではない。マスメディアが「シャネラー」と名付ける時には、同時に記号意味(シニフィエ)が提示される。たとえばそれは「一般大衆よりも少しリッチな人々」というようなイメージである。

シャネルを買うということは、「一般大衆よりも少しリッチな人々」のコミュニティへの参加を意味する。現代の情報社会における消費は、このような虚像的な記号コミュニティへ参加するためのパスを手に入れることを意味する。たとえば「家電の三種神器」などの記号は、中流家庭というコミュニティに参加するパスを手に入れることを意味するのである。また現代の「恋愛」という記号は、80年代からのTVドラマから提供されたシニフィエの影響を多く受けており、ドラマのような恋愛を、あるいはデートスポットを楽しむという「恋愛」コミュニティへ参加することであり、彼氏、または彼女というパスが必要とされるのである。このために「恋人」さえ記号化されている。

また「女子高生」は同様な服装をして、ギャル語なるものを使うことが「女子高生」コミュニティへ参加することのパスである。多くの場合に、それはマスメディアが提示した「女子高生」という記号を元にしている。そして記号を共有しあう、しあっていると思うことにより、そのようなコミュニティが存在していると感じるのであり、そのコミュニティーへ帰属していることを感じるのである。たとえば雑誌にいまどきの女子高生はこうである!と示されると、その情報を多くのものが共有することにより、女子高生というコミュニティに所属していると感じるのである。

そして記号コミュニティへ参加しつづけるためには、情報を入手しつづけることが必要とされる。そしてある記号コミュニティへの帰属が自己価値形成と密接に結びついている場合には、入手しつづけなければ、コミュニティから排除され、自己価値が維持されないという強迫観念に繋がる場合がある。たとえばこれは「ブランド品にはまる女性たち」などの記号への依存症である。



記号意味(シニフィエ)の記号組織化


このような記号コミュニティのシニフィエは、絶えず変化し続ける。たとえば「シャネル」が「一般大衆よりも少しリッチな人々」というイメージであったとしても、それがより広く大衆に広まることによって、そのブランドイメージは陳腐化したり、また「成金趣味」というイメージへ変容していくかもしれない。また「いま新しいのは、プラダである!」とマスメディアが新たに宣伝したり、ある人気女優が「ガルシア・マルケスがお気に入り」というと、「少しリッチな人々」というイメージはそちらに移っていくかもしれない。

このような記号シニフィエの変容は、マスメディアによる名付けがもとになっているとしても、マスメディアにより操作されているという単純な構造ではない。マスメディアによるほとんどの名付けは大量の情報の中に埋もれていく。そして記号が受け入れられるためには、そこに価値を見いだす大衆側の反応が必要になる。たとえばマスメディアが「シャネラー」を「一般大衆よりも少しリッチな人々」というシニフィエとして提示するときには、それはそのはじめに大衆の中にシャネル好きの人々というような潜在力が必要となる。

マスメディアもこのような大衆の動向に基づいて、新たな情報を発信する。すなわち記号はマスメディアと大衆のコミュニケーションを意味し、そのシニフィエはそのようなコミュニケーションの中で自律的に変化し続けているのである。私はこれを「記号意味(シニフィエ)の自己組織化構造」と呼んでいる。



記号コミュニティ内部への差異化運動


このような記号コミュニティは単数的に現れるものではない。たとえば「シャネルラー」は、女性雑誌など提供する記号意味、「少しリッチな人々」や「少しおしゃれな人々」というコミュニティの内部であったりする。そして階層的な記号コミュニティへの帰属によって、自己は価値を見いだすのである。

そしてシャネラーはさらにそれ自身のコミュニティ内部への差異化運動を持つ。人は単にシャネルをもつ人々/持たない人々程度の差異化では、自己価値を見いだすことができない。それはシャネラー内で、シャネルを数多くもつ人、最新のシャネルを持つ人などの内部を開拓する方向へ差異化され、自己価値はより細部にもとめられ、コミュニティ内部は複雑化するのである。



社会的コミュニティから記号コミュニティへ


このような差異化の運動によりさらにコミュニティ内部の細部へ向かい自己価値を見出だそうとすることはオタク思考である。情報化社会ではこのような記号コミュニティへの帰属によって自己価値は見いだされている。そしてそれは社会的なコミュニティ(家庭、地域、国家など)への帰属意識を希薄にし、また社会的コミュニティの中の現前の他者への興味を希薄にしているのである。そしてゴフマンのいう「儀礼的無関心」のように現前の他者に無関心であることが礼儀とされる社会につながる。街や、電車内などで、現前する他者は重要な相手ではなく、儀礼的無関心により必要以上にコミュニケーションしあわないことが望まれるのである。

欲望は社会的コミュニティ上では現れずに、記号コミュニティの細部にむけられる。しかし記号コミュニティへの欲望は、社会的な現前の他者には隠され、自己内部への運動として働くために、社会的コミュニティとしてみれば、人々が欲望をなくし動物化しているように写る。マクドナルドなどで人々が「動物化」するのは、店員を現前の他者として認識しコミュニケーションするのではなく、人々にとってマクドナルドでハンバーガーを買うという行為は重要なことではなく、それは形式的になされることを望むのである。

社会的なコミュニティへの帰属意識の低下は、情報化社会で価値の選択肢が増えていることからくるという考えられる。さらには家族、地域、市民、国家などの社会的コミュニティーは近代に形成されたものであり、すでにその価値基準は静的に固定されているために、世代が移り変わっていく中で、人々は固定された価値よりも、記号コミュニティという現在生まれくるような動的な価値を指向しているとうことである。

このような動的な価値を指向する傾向は、情報化社会に限らない。人は単に与えられた価値にしたがうよりも、価値形成というダイナミズムに参加することによる「生の充実」を得ようとするのである。




3 オタクの自己制作性


記号コミュニティ


記号コミュニティは、様々な付加価値商品から、女子高生、「浜崎あゆみ」、「エヴァンゲリオン」などなど社会に中に溢れている。わたしたちは虚像的にこのような複数の記号コミュニティに参加することにより、自己価値を見いだそうとしているのである。これは「オタク思考」であり、現代人は多かれ少なかれ、このようなオタク思考を持っているのではないだろうか。

それでも現代の多くの人が、「私はなんのために生きているのか?」、「自分探し」という焦燥感をいだいている。それは記号コミュニティへの参加は現前化しない他者と記号を介してコミュニティを形成するというとても虚像的なものである。また社会的コミュニティの価値観と記号コミュニティの価値観の間で葛藤し、うまく記号コミュニティへ帰属し自己価値を形成することができないためだ。



消費選択から自己制作へ


このような記号コミュニティの差異化運動を加速させた人々が「オタク」である。彼らは一般的な社会的価値観では、社交性のないマイナスなイメージで考えられがちであるが、彼らはさらに社会的コミュニティから記号コミュニティへの帰属意識を高めているのである。そうすることによって、さらに強い自己価値を記号コミュニティ内の差異化運動に求めているのである。

このような記号コミュニティ内の差異化運動の加速は、社会コミュニティに価値を見いださないという「動物化」傾向であると同時に、記号コミュニティ内部へという自己に埋没し、社会的な自己閉鎖性を生む。しかしこのような社会的な自己閉鎖性は、大量に溢れる情報を遮断し、自分の興味にあるものに集中することができる利点がある。これはとてもクリエイティブな空間を作りだすのである。すなわちこのような差異化運動の加速は、消費を選択することにより自己価値を見いだすことから、シミュラークル(模造品)を作りだすという自己制作へむかっていることを意味する。シミュラークルとは、それが模造品であっても、世界に唯一のものであり、記号コミュニティの中での自己の唯一性、すなわち自己価値を保証するのである。



オタクのダイナミズム


オタクがアニメ、マンガ、コンピュータープログラムなどを指向するのは、このようなシミュラークル(模造品)を創造しやすいとても柔軟な分野であるからである。さらにこのような柔軟な分野とは社会的な価値のダイナミズムが発生しやすい分野である。たとえばマンガ、アニメ、コンピュータプログラムは制作コストが安く、なおかつ娯楽というクリエイティブ性が必要とされる分野であり、だれでも取り組みやすく、多くの人が集まり、ムーブメントとしてのダイナミズムが発生しやすい。そして現在においては、オタクによるアニメであり、ゲームは、世界へ発信され、日本の代表産業に育ちつつある。これはオタクというダイナミズムが世界へ広がり、「オタク」が国際的な記号コミュニティとして広まっていることを意味する。

またオタク思考の自己制作性は、アニメ、ゲームなどだけではない。現代社会の商品価値が、従来の機能的な価値から、イメージ的な付加的価値へ向かう中では、生産はかつての肉体的な労働からソフト的な発想へと移っている。オタク的創造性は社会の多くの分野でこのような商品開発へ展開されているのではないだろうか。

彼らは容易な対価を求めるわけでなく、好きなことに熱中したい、さらには記号コミュニティの中で自己価値を顕示したのである。これはたとえばアメリカのコンピューターオタク、ハッカーなどにも共通することである。世界的に成功したオタクというのが一握りであっても、そのようなオタクという記号コミュニティの自己制作性という差異化運動は、大きな力となり、アニメ、ゲーム、コンピュータ産業を世界的に押し上げているのである。そしてそれは情報化社会の中で自己価値を見いだす先鋭的な方法であるといえる。




4 ネットコミュニティの差異化運動


ネット上の記号コミュニティ


現代社会では大量の複写物によって過剰な情報と価値が供給される。このために自己同一性は散乱する傾向がある。そのためにわたしたちは記号コミュニティに帰属し、自己価値を見いだそうとしている。大衆がマスメディアから大量にばらまかれる記号を共時的に体験をすることによって、記号コミュニティは形成される。それは社会的に明確なコミュニティを形成しているわけではなく、ある記号を指向するコミュニティが存在し、それに自分は帰属しているという各自の意識にささえられている。

ネット社会では、物理的な制約が少なく、クリックするだけで自由に移動できる。主体は空間を超越して存在することが可能になる。またある掲示板で男性であり、ある掲示板では女性であるというように多様な場に多様な主体としてあらわれることができる。このために主体の散乱は加速されるといわれている。

しかしこのようなインターネットの自由度に対して、多くのネットユーザーの行動は思った以上に狭いのではないだろうか。ネットワーク上には大きく分けて「データーベース場」「コミュニケーション場」がある。データベース場は情報を収集するために訪れる場所であり、ニュースサイトや興味を同じくするパーソナルなHPなどである。そしてコミュニケーション場は他者とコミュニケーションする場で、2ちゃんねるなどの掲示板である。データーベースとコミュニケーションは必ずしも異なるものではなく、一つの場に共存している機能である。

たとえばデーターベース場として回覧するところは、自分が帰属する記号コミュニティに関係するものであり、より有効な情報が集められる場としていくつかに絞り込まれる。そしてコミュニケーション場としては、自分と同じ記号コミュニティに帰属するものたちとのコミュニケーション場である。これらの場の選択は帰属する記号の選択を意味し、それは自己価値化行為である。

またネット社会では個人が情報を発信することを可能にした。ネットワーク上に構築されたパーソナルなホームページ、日記は、対価がないにもかかわらずに、多くの時間と労力が費やされ制作されている。これらは自分の興味のあることを提示するようにつくられている。すなわち自分が帰属する記号コミュニティの提示であり、ネット上で自己価値を誇示しているのである。またパーソナルなHPの多くは掲示板を併設し、コミュニケーション場として解放されている。それは自分が帰属する記号コミュニティのメンバーへの呼びかけである。



ネットコミュニティの差異化運動


現代社会の大量な情報、価値の中で、人々の帰属は社会的コミュニティから虚像的な記号コミュニティへ移行してきた。そして社会的コミュニティの現前の他者たちとのコミュニケーションは回避される方向で進んだのである。それは情報化社会の中へ自己価値を見いだすためであり、さらに記号コミュニティというダイナミッツクな価値生成場を指向するためである。それがネット上の記号コミュニティでは、現前化しなかった記号コミュニティの「メンバー」と直接コミュニケーションすることが可能になった。

同じ記号コミュニティへ帰属する他者との直接的なコミュニケーションは、記号コミュニティへのさらに強い帰属意識を生み出すのではないだろうか。自分と近い価値をもつ他者とコミュニケーションするということは、「より近い他者」と差異化するために異なる価値をもとめて、コミュニティ内部のより細部へ向かうという差異化運動を加速させるからだ。

ネットという主体が散乱しやすい場で、主体は回覧サイトの選択、パーソナルなHPの作成、記号コミュニティ「メンバー」との直接的なコミュニケーションによって、記号コミュニティ内への差異化運動を加速させている。記号コミュニティはネット上に移り、「ネットコミュニティ」として差異化運動を加速させているのである。ネット上の掲示板に参加する人たちは、たまたまそこで発言しているわけではなく、記号コミュニティという掲示板に帰属意識をもち参加している。このような差異化運動によって、ネットコミュニティはさらに細分化されている。いままでマスメディアによる共時的な体験として与えられていた記号ではなく、記号を自己制作する方向に進んでいるのである。



ネットにおけるディスコミュニケーション


しかしネットコミュニケーションには様々な問題がある。ネットコミュニケーションでは、多くにおいて他者は「匿名」であり、言語としてしか現れない。このために他者の情報、(社会的な情報や心象的な情報)が決定的に欠落し、主体はフラストレーションを感じ、他者を否定的み見るのである。さらにはネットコミュニケーションはだたいるだけということはありず、発言しなければ存在しないことになる。そして発言は、ネットの向こうの見えない他者たちに見られているのである。このような状況で発言することは緊張感を強いられる。たとえばそれははじめてパーソナルなHPなどの掲示板に投稿するときの緊張感を考えてみればわかる。

このようにネット上のコミュニケーション場は、感情的になりやすくセンシティブな場であり、ある程度の人口密度に達するとフレーミング(言い合い)」の発生は避けられない。フレーミングは単に意図的に誰かが煽るようなことで始まるのではない。それは互いに相反する真面目な意見をもつものが対峙したときにおこる。そしてフレーミングに巻き込まれた者は、ネットの向こうの他者たちに見られているという強い意識をもち、そのコミュニケーション場での自分の立場を守るという危機感に繋がる。このためにただ「負けない」ことが目的化され発言は繰り返される。そして加熱するフレーミングは議論するものたちだけの問題ではなく、回りのものを巻き込んで、コミュニケーション場自体のコミュニケーション機能を麻痺させるのである。

このようなことから、特にパーソナルな掲示板では、閉鎖的であることが多い。新参者には神経質であり、掲示板内の意見と異なるものは排除される。このような閉鎖性により、コミュニティ内外を差異化し、コミュニティの帰属意識を高め、「社会性」を高めている面がある。




5 2ちゃんねるスタイル


2ちゃんねる」という出会いの場


ネット上で、主体は回覧サイトの選択、パーソナルなHPの作成、記号コミュニティ「メンバー」との直接的なコミュニケーションにより、記号コミュニティ内への差異化運動を加速させ、自己価値を見いだしていく。しかしネットコミュニケーションは、相手の情報が欠落し、フラストレーションを生む。このためにフレーミング(言い合い)の発生は避けられず、パーソナルな掲示板は閉鎖的な傾向を強める。

このような中で、2ちゃんねるは多くのネットユーザーを集めており、その集客力が最大の魅力となっている。2ちゃんねるがそれを可能にした理由は、無名性、すなわち「名無し」を徹底したことにあるのではないだろうか。「名無し」であるということは、閉鎖的な帰属意識を持ちにくく、掲示板というコミュニティ内外という境界を発生しにくい。またフレーミングが発生した場合にも、「名無し」であれば誰であるか特定されず、そのコミュニケーション場での自分の立場を守るという危機感に繋がらない。またお互いに相手が誰か特定できずに、継続しにくい。このようにして2ちゃんねるはネットコミュニティが持つディスコミュニケーション性を乗り越えることによって「出会いの場」をうまく演出したのである。



2ちゃんねるスタイル


2ちゃんねるは、2ちゃんねるでの「名無し」による発言のしやすさは、フレーミングの発生を回避するということではなく、フレーミングが継続されにくいということである。現在においてフレーミングさえも楽しむというフレーミングのゲーム化」を生み出している。フレーミングのゲーム化」とは、煽りを含んだレスにより、フレーミングを仕掛け、いい負けないないように、発言を繰り返えす。ここでは発言し続けることが目的化ていく。このために発言は、発言の内容への返信そのものではなく、ズレを生みながら繰り返される。

オマエモナー、ワラ、厨房などの2ちゃんねる的蔑視言葉は、マジではなく、フレーミングゲームであるということを互いに確認しあう記号であり、さらには2ちゃんねるコミュニティに帰属しているということの確認行為である。このためにフレーミングゲームは、発言をたえずマジからネタ的レベルに持ち上げ、「〜といっていみるた」と繰り返される。ネットの匿名性とディスコミュニケーションによりフラストレーションから、ネタ的に過激で暴露的な発言が繰り返される。いまやこのようなフレーミングゲームにおけるネタ的で過激な行為は、2ちゃんねるを代表するようなスタイルであり、様式化されている。




6 2ちゃんねる/大衆


2ちゃんねる/大衆


2ちゃんねるが成功したもう一つの理由として考えなければならないのが、マスメディアとの関係ではないだろうか。2ちゃんねる住人の増加は、バスジャック事件など、マスメディアで取り上げられることによって膨らんできたのではないだろうか。最近では、人質事件でマスメディアに「モラルのない無法集団」として取り上げられたように、マスメディアが「2ちゃんねる」の記号意味(シニフィエ)を反「大衆」的として報道することによって、「2ちゃねらー」はマスメディア的「大衆」と差異化された2ちゃんねるという記号コミュニティへの帰属意識を深めていく。2ちゃんねる」という記号コミュニティは、「2ちゃんねる」というシステムではなく、「2ちゃんねる」という記号コミュニティが存在し、「2ちゃんねる」という記号コミュニティに帰属しているという「2ちゃねらー」の意識によって支えられているのである。

ここでさらに考えるべきは、マスメディアが提示する「大衆」も記号であるということだ。この「大衆」という記号コミュニティは近代的な自律した主体を根底にしているとしても、消費社会の中で作られてきたのではないだろうか。消費社会では、社会的なコミュニティ(家庭、地域、国家など)への帰属意識を希薄にし、そして現前の他者との関係を希薄にし、欲望は記号コミュニティの内部に向った。社会的コミュニティは「大衆」という記号コミュニティとなり、人々は欲望を隠し理性的で「動物化」する。そして「大衆」という記号コミュニティは「大衆」という記号コミュニティに帰属しているという「大衆」の意識によって支えられてきたのである。

2ちゃんねる的現象は日本特有といわれるが、ネットの匿名性とディスコミュニケーションによるフラストレーションから、発言が過激に暴露的になることは、その他の国でも現れている傾向である。日本特有であるのは、これが巨大なコミュニティ化していることだろう。このような現象は、日本の「大衆」という帰属意識の高い記号コミュニティの差異としてなりたっている。その閉塞感が、「2ちゃんねる」という記号コミュニティを生んでいるのではないだろうか。



増殖する2ちゃんねる


2ちゃんねるは本来総合掲示板である。しかしいまや「フレーミングのゲーム化」によってネタ的なコミュニケーションゲームとして様式化され、またマスメディアに反「大衆」的に報道されることにより、「2ちゃんねる」という記号コミュニティが形成されている。2ちゃんねるへアクセスすることは、総合掲示板としてもどこかのスレッドへアクセスし、コミュニケーションすると言うよりも、「2ちゃんねる」へアクセスし、2ちゃんねるスタイルのコミュニケーションをすることが目的化されているのである。

このような2ちゃんねるスタイルは、ネット上はもとより社会生活へも進出する勢いである。ネット上には2ちゃんねるを表す記号があちこちで見られる。それはモナーというAAというわかりやすいものから、(*゜Д゜)のような絵文字であったりする。さらにはあちこちで掲示板で、パーソナルはHPでそれらは見られる。そこでは自分が2ちゃんねるに帰属していることは誇示されている。さらにネット上での体験は、2ちゃんねらーに報告され、ネタにされている。どこどこの掲示板のだれだれはDQNであると。

さらに社会コミュニティ的に不道徳的な、過激な発言を生み出し、社会コミュニティと摩擦を生んでいることは承知の事実であるし、最近ではイラク人質事件で人質が解放されたときにTV映像の後ろに「ぬるぽ」という紙がうちし出されていたが、(マスメディア側の隠れ2ちゃねらーが意図的に撮影していた?)あれは2ちゃねらーによる2ちゃねらーへのメッセージであり、2ちゃねらーとしての自己顕示である。



野蛮化する大衆


2ちゃんねる出現前には、不特定多数との直接的なコミュニケーションはありえなかった。わたしたちは理性的な「大衆」というコミュニティが存在し、そこに帰属していると考えてきた。そしてそのような帰属意識が「大衆」を支えてきた。しかし直接、コミュニケーションしてみるとそこに現れてきた「メンバー」たちは、そのような理性的な人々ではなかった。そしてマスメディアが「大衆」を提示するたびに、「大衆」という記号から「溢れる余剰」は、自己の中の隠されるべき欲望から、差異化された「2ちゃんねる」というコミュニティへと変わってきているのである。そしてそれはいまや欲望を暴露することが目的化され、そして2ちゃんねるスタイルを体現しているか?、2ちゃねらー的発言をしているか?ということが、「2ちゃんねる」記号コミュニティへの帰属意識を高め、差異化運動を生んでいるのである。

たしかに2ちゃんねるはスタイル化され、価値化され、差異化運動し、2ちゃねらーの言動は、より過激なものとしてあらわれ、社会コミュニティの運営上の問題となる場合も出てきている。しかしこのような欲望の暴露は、ネットコミュニケーションがもつ根源的な特性かもしれない。野蛮性は理性的であることを同じに人のもつ一面である。このような「普通の」大衆自身による大量な野蛮性の表出は、もしかすると歴史上なかったことかもしれない。ネットコミュニケーションの匿名性は暴露性を産み、フレーミング性は過激さを増殖させる。このような中で「普通の」大衆の欲望が表出してきているのかもしれない。

このような流れの中で、今は、マスメディアにより大衆/2ちゃんねる=理性/野蛮=善/悪というような形而上学的二交対立で表現されているが、それはやがて脱構築されていき、ネットが社会へより浸透していく中で、「大衆」の記号意味(シニフィエ)は、このような野蛮性を取り込みながら、変化していくのではないだろうか。今回の人質事件の「自己責任」論をマスメディアや大衆も指示したという傾向は、すでに「2ちゃんねる」的な、野蛮性へ「大衆」の記号意味(シニフィエ)を変化させつつあると考えるのは、少し強引だろうか。




7 2ちゃんねるの二重構造


単一記号コミュニティ「2ちゃんねる


ネットワーク上には大きく分けてデーターベース場とコミュニケーション場がある。データベース場は情報を収集するために訪れる場所であり、ニュースサイトや興味を同じくするパーソナルなHPなどである。そしてコミュニケーション場は他者とコミュニケーションする場で、2ちゃんねるなどの掲示板である。データーベースとコミュニケーションは必ずしも異なるものではなく、一つの場に共存している機能である。たとえばデーターベース場として回覧するところは、自分が帰属する記号コミュニティに関係するものであり、より有効な情報が集められる場としていくつかに絞り込まれる。そしてコミュニケーション場としては、自分と同じ記号コミュニティに帰属するものたちとのコミュニケーション場である。これらの場の選択は帰属する記号の選択を意味し、それは自己価値化行為である。

2ちゃんねるはコミュニケーション場としての要素が大きい。ネットコミュニケーションがもつディスコミュニケーション性を乗り越え、フレーミングをゲーム化することにより、より活発なコミュニケーションを可能にしたのである。そして活発なコミュニケーションは、人々の中で隠されていた欲望を暴露すること方向に向かっている。それをマスメディアが「大衆」と差異化したときに、「2ちゃんねる」という記号コミュニティが形成された。

2ちゃんねる」へアクセスし、2ちゃんねるスタイルのコミュニケーションをすることが価値化しているのである。そしてそれは大衆の一面として理解されてきているのではないだろうか。なんらかの事件があれば、マスメディサイドの人間も2ちゃんねるの発言を見にくることが一般化しているだろう。2ちゃんねるでは…」とは大衆の本音の一面であると認識して記事は書かれているだろう。



多様記号コミュニティ2ちゃんねる


しかし2ちゃんねるをこのような面だけでで捉えるのは明らかに間違いである。現代社会の大量な情報、価値の中で、人々の帰属は社会的コミュニティから虚像的な記号コミュニティへ移行してきた。そして記号コミュニティがネット上へ移ることにより、現前化しなかった記号コミュニティの「メンバー」と直接コミュニケーションすることが可能になった。同じ記号コミュニティへ帰属する他者との直接的なコミュニケーションは、記号コミュニティへのさらに強い帰属意識を生み出す。さらに自分と近い価値をもつ他者とコミュニケーションするということは、「より近い他者」と差異化するために異なる価値をもとめて、コミュニティ内部のより細部へ向かうという差異化運動を加速させる。

2ちゃんねるはカテゴリ、スレッドという階層的構造を持ち、多くの多様な記号コミュニティを内包した総合掲示板である。多くのネットユーザーはインターネットの自由度に対して、頻繁におとれずれる場は思った以上に狭い。それはデーターベース場よりもコミュニケーション場においてより顕著である。だから2ちゃんねる住人が2ちゃんねる内のどの板のどれスレッドを選定し、頻繁にコミュニケーションするかは、たまたまそこで発言しているわけではなく、記号コミュニティを選択し、その記号コミュニティへ帰属意識をもち参加しているのである。

2ちゃんねるの集客力はより細分化した多様な記号コミュニティを発生させ、より活発なコミュニケーション場を可能にしている。そして記号コミュニティ内の差異化運動によって、自己価値を見いだそうとしているのである。このような場合に発言は、ネタ的、煽り的という2ちゃんねるスタイルではなく、記号についての情報交換を行うデーターベース場として作動し、発言も「マジレス」として進められることが多い。



2ちゃんねるの二重構造


多くの2ちゃねらーは、「2ちゃんねる」という単一記号コミュニティと、多様な記号コミュニティ群の選定という二重の構造をもって参加している。たとえばニューズ板、TV系の板、タレント系の板などの大衆全般的な分野へは誰でも比較的安易に参加することができる。そのような場では、2ちゃんねるスタイルが表出しやすい。それはさらに「祭り」で顕著である。社会的に大きな事件がおこると2ちゃんねる内の事件に関係するスレッドに2ちゃねらーが集中して集まる。そして「祭り」は、参加し発言することが目的化されるという2ちゃんねるスタイルがもっとも顕著に現れる。そのような「祭り」によって、事件に対する不安を共有し、2ちゃねらーは「2ちゃんねる」コミュニティへの帰属意識を確認しているのである。

専門的な分野では、専門分野のカテゴリーへの帰属意識が高い傾向があり、「マジレス」が繰り替えられやすい。ただこれもこれはあくまで傾向であり、ちゃねらーはこのような二面性をもって、2ちゃんねるに参加しているのである。だからたとえばある板において、あるスレッドではマジレスを行い、その隣のスレッドではフレーミングゲームを楽しむなどはよくあることだろう。




8 2ちゃんねるを遊星するプログ群


発散する2ちゃんねる


肥大しつづける2ちゃんねるにおいて、「2ちゃんねる」は2ちゃんねるスタイルを様式化させ、反「大衆」を目的化している傾向が増している。さらにマスメディアに取り上げられることにより、よりいっしょうそのような役割を担うことが意識されてきているように思う。たとえば、昔の2ちゃんねるは良かったという2ちゃねらーが多いが、すでに反「大衆」に内面を暴露することが様式化された発言で溢れている現状を嘆いているのではないだろうか。昔は反「大衆」をいかに試みるか試行錯誤する楽しみがあったというわけである。

それはフレーミング族」というようなほぼ2ちゃんねるスタイルのみを目的にする2ちゃねらーもあらわれているかもしれない。このような傾向は、2ちゃんねる内の、秩序性、理性的発言、建設的な発言、スレッドへの攻撃と向かう傾向もある。

狙われるのは、例えばコテハンである。コテハンは主体の連続性を保証する。このために一方向のフレーミング戦巻き込まれやすい。コテからはフレーミング相手はみえず、名無しからはフレーミング相手を特定できるという一方向性が現れる。また同様なことが継続性が高く、帰属性の高いスレッドにも言える。2ちゃんねるに巣くう「フレーミング族」はこれらの連続性、秩序性を攻撃することをゲーム化しているといえる。このようなスタイル化され、だれでも暴露的、煽り的発言は、場を発散させ、2ちゃんねるが内包する自己制作的な多様な記号コミュニティ群の差異化運動を閉塞させる面がある。



ブログへ向かう2ちゃねら


このような中で2ちゃんねるの自己制作的な多様な記号コミュニティ群の補完として、ブログは発展してきているように思う。荒れる2ちゃんねると飛び出して、ブログにおいて落ち着いて自己構築を行おうというわけでる。

ブログはパーソナルなHP、日記の発展系であると考えられるが、特徴は他者に開かれている点にある。掲示板機能を持ち、さらにリンクされたことを知らせる、またはトラックバックされる/するというように、システム的に同じ興味をもつものとの関係が構築されていく。このために、ブログは、従来の日記や、パーソナルなHPのような自己閉鎖系、静的なものに比べ、最新の記事のリンクを張り、それに簡単にコメントをつけるという開放系、新鮮な情報を供給し続けるというような動的な傾向にある。これはマスメディアのニュースサイトに近いデータベース場として構築されるものが多い。

そしてリンクを張り合う、トラックバックしあうというブログ間でコミュニケーション機能は、2ちゃんねるなどの掲示板のように即時的な会話コミュニケーション場に比べ、いわば「書簡的」なコミュニケーション方法であり、コミュニケーション場として他者との関係はゆるやかなものとなるが、他者と一定の距離をおくことにより、ネット上のディスコミュニケーションの問題を回避することができる。そのようにしてブログ群のゆるやかなネットワーク網としてコミュニケーション場を形成している。



2ちゃんねるとその周辺


アメリカなどでは、2ちゃんねるのようなコミュニケーション場はなく、ブログが主流であると聞く。この当たりの事情はよく知らないのでなんとも言えないが、民族性?なのか、日本のブログ自体は、コミュニケーション場としてよりも、やはりデーターベース場として機能しているように思う。だからブロガーは2ちゃねらーである場合が多いのではないだろうか。2ちゃんねるが内包する多様な記号コミュニティと遊星的に距離を保ちながらブログは存在し、彼らはブログと2ちゃねるを行き来するのである。ここには2ちゃんねるという混沌としつつある活発なコミュニケーション場と、自己を制作するデーターベース場という周辺という構造が見られる。

たとえば、今回の人質問題や、Winny開発者逮捕においても、まとまった情報を得やすいのはブログである。そしてそこでそれぞれのまとまった主張をみることができる。しかしそれらの発言の多くが、マスメディアとは反対であっても理性主義的過ぎる面はいなめない。2ちゃんねるが反「大衆」とすると、そこに存在するのはやはり反体制的主張なのである。それはこのような文章(エクリチュール)を書くと言う行為そのものに内在する必然的な論理性が理性主義的傾向へ繋がっているように思う。まとまった文章を書くと言うことはそれだkで、理性的でなければならないという近代的な自律した主体を呼び起こす行為なのではないだろうか。

その点では、やはり2ちゃんねるはさらに多様に混沌とした発言を見つけることができる。それは理性的にみれば、馬鹿発言で、即時的な、おもしろ半分ということになるのかもしれないが、しかしその中ではやはりわたしたちの中にある不条理な野蛮性の暴露があるのである。そしてなにが良い、悪いということではなく、現在、マスメディアにしろ、ブログにしろ、その理性的な言説は、2ちゃんねるという野蛮性との相対化なしでは構築することができなくなっているという事実があるのではないだろうか。それはマスメディアさえも2ちゃんねるの周辺化しているということかもしれない。




9 つながりへの欲望


おしゃべり好き


2ちゃんねるはネットユーザーの「出会いの場」をうまく演出し、集客力を勝ち得た。そして大衆の野蛮性が露出し、いまや2ちゃんねるの反「大衆」性は、大衆の一面を担うまでになってきている。このような2ちゃんねるの原動力は、「コミュニケーションのためにコミュニケーションする」、なにか話したい内容があるから話すわけではなく、話したいから話す。すなわり「おしゃべり」である。

対面のコミュニケーションにおいて「おしゃべり」はとても普通の行為である。それは暇つぶしであるかもしれないし、寂しさを埋める行為かもしれないが、ネットコミュニケーションによってあらわになったのは、人はこんなにもおしゃべりが好きだったのかということである。



携帯メールという娯楽ツール


人の「おしゃべり」好きの傾向は、世界中に見られる携帯電話の驚異的な普及にも現れている。それは先進国のみならず、後進国においても携帯電話が普及しているということにも現れている。その中でも特に日本において爆発的な普及に結びついたのはメール機能の付加によってだろう。

個人で所有し、どこでもコミュニケーションできる携帯電話の電話機能も「おしゃべり」のツールとして携帯電話の普及を進めたが、携帯電話のメール機能はさらにそれを押し進めている。電話機能とメール機能を比べると、電話は他者に即答性を求めるという脅迫性がある。他者の日常に突然飛び込む。このために電話するためには往々にして用件が必要になる。それに対して、メールは電話のような即答性を求めない。

電話よりメールは雑談的で、おしゃべり的なのである。「今、なにしてるの?」とは、「用件」を伝えるのではなく、コミュニケーションへの合図である。特に良く知った相手とのメールは、文面は用件でなく、遊び的である。それは絵文字の多様に現れているし、意味を正確に伝えるよりも、今の気分を伝え合うゲームである。そして写メールは絵文字の延長にある。今の心象を伝える記号である。通信料の問題もあるが、メール機能は電話機能をさらにコミュニケーションそのものを楽しむ娯楽ツールとして普及を進めたのである。



コミュニケーション依存


このような目的化されたコミュニケーションは単に娯楽とはいえないのかもしれない。それはコミュニティの帰属意識に支えられていると考えることができる。私の知らないところで、コミュニティ内のコミュニケーションが密接に行われ、自分が排除されるのではないかという不安から、コミュニティへとアクセスし続けるのである。

これは「おしゃべり」そのものの本質であり、人は多重にコミュニティにコミュニティに帰属し、自己価値を形成している。しかしあるコミュニティへの過剰な帰属意識は、コミュニケーションし続けないと、コミュニティから排除されるのではないか、排除されると自己価値が保たれないのではないか、という強迫観念化し、それがメール依存症へつながる。

これはネット中毒においても同様である。ネット中毒は、ネット上のコミュニケーション場において起きやすい。ネットは24時間開かれたコミュニケーション場であり、自分がコミュニケーションをやめたあとにも、だれかがコミュニケーションし続けている。そしてそこで楽しいことが、大切なことが行われて、そこから自分が疎外されるのではないかという不安からくるのである。



記号コミュニティ依存


現代、人々は現前の他者との社会的なコミュニティから、記号コミュニティへ帰属意識を移している。記号コミュニティとは、マスメディアなどの情報によって、そのようなコミュニティが演出される。たとえばシャネル好きは、「シャネラー」という記号コミュニティに所属するのであり、それによって自己価値が形成されているのである。記号コミュニティは明確な組織ではなく、他の「メンバー」とコミュニケーションするわけでなく、雑誌、TVなどを通して、主体がそのようなコミュニティが存在し、そのようなコミュニティに帰属しているという意識によって支えられているのである。これは消費と強く結びついている。現代において消費することは、記号コミュニティへ帰属するためのパスを意味するのである。

このような記号コミュニティの発達は、テクノロジーの発達に支えられている。そしてテクノロジーによる利便性の向上が、人への負荷を増幅させることはよくあることである。たとえば、交通が便利になれば、今まで時間がかかっていたものが、短くなって、時間的な余裕ができるわけではなく、便利になったからより移動する回数が増えて、時間的な余裕がなくなるというようなことである。マスメディア的テクノロジーの発達は、最新情報を手に入れよう。新しいファッションを知りたい。映画は新しいものをみたいなど、記号コミュニティへのつながりへの欲望を増幅させ、新しい消費への欲望を増大させている。



ネットコミュニティ依存


このような記号コミュニティにおいて、携帯電話やインターネットの登場はさらにつながりへの欲望を加速させている。それは記号コミュニティの「メンバー」と直接コミュニケーションすることが可能になったのである。携帯電話によってアクセスが容易になったために、だれかがコミュニティへアクセスしているのではないかという不安が増幅した。またそれはメール、掲示板だけでなく、出会い系や、パーソナルなHPの作成などにも言える。

メールや、ネットへのコミュニケーションの増大は、単に記号コミュニティの「メンバー」と直接コミュニケーションすることが可能になり、人の「おしゃべり」好きが暴露されただけでなく、つながりへの欲望を増大させているが故に、より人は「おしゃべり」をするという面は否めない。

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