なぜ「他者」は特別なのか 

pikarrr2006-07-04


1 他者志向性

2 他者の特別性

3 世界の他者化


<解説>
再掲載シリーズ第ニ弾。(掲載 2004.6.1〜2004.6.3)ここにはその後の思考の原型があります。ただ「他者志向性」は先天的であるのか。人は生まれながらに人を知っているのか。



1 他者志向性


世界への他者志向性


たとえば火星表面の人面石とはなんでしょうか。火星の表面を観察をしたところ影が人の顔のように見えた。そのほかにも人面魚というのもありました。鯉の模様が人の顔のように見える。このような現象におもしろいのは、偶有的な模様からそのような模様に惹かれることです。ここにはそこに「意味」を感じるという人の「志向性」があります。

たとえば富士山を見たときになんらかの感慨を持ちます。海に沈む夕日であり、星空であり、花であり、なんらかの感慨をもちます。偶有的なものであるはずなのに、理解できないところで心が何かを感じてしまう。そしてこのような感慨は、そこに誰かからの何らかの意味があるように捏造されます。富士山は誰かからの私たちへのシグナルなのです。富士山はたまたま出来たのではない。だれかが富士山を美しくつくったのです。だから私はそこに美しさという意味を受け取ることが出来るのです。

捏造される誰かとは、私が美しいと思うものに、同じように美しいと思える、コミュニケーション可能な「他者」です。それは火星人であったり、幽霊であったりしますが、多くにおいて「神」です。神は、人の英知を越えた存在ではありますが、私とコミュニケーション可能な存在です。ここには、人の「他者志向性」があります。人は惹かれるものに他者性を捏造する。あるいは、人は他者性に強く惹かれるということです。

たとえば人はペットや人形などさまざまものに、愛着をもちます。ペットや人形などに語りかけます。そして愛着あるものに強く感情移入します。愛着あるものが傷つくときには、自分のように痛みます。ここにも「他者志向性」があります。そしてさらには他者とは、限りなく私に近い存在であるということがわかります。



他者への他者志向性


たとえば、友達がすねを打って痛がっている。この痛みは私にわかるのだろうか、という哲学的な疑問があります。これは確かめようがありません。しかし友達がすねを打って痛がっている様子をみると、私自身も痛さを感じます。それを感じることが出来るのは、他者は限りなく私だからです。

たとえば、なぜ子供は子供に惹かれるのでしょうか。電車の中で何組かの家族連れがいると、子供は他の家族の子供の動作をみているのに気づいたことはないでしょうか。彼らはなにかのシグナルを出し合うように強く惹かれあっています。しかしこれは子供だけの特性ではないでしょう。たとえば異国で同じ日本人に見かけたときなど、多数の異種の中に、自分と近い人をみたときに、感じるものがあります。そこにはもう一人の「私」を見つけるのです。

人面岩や富士山やペットに見られた他者性志向による捏造された他者とのコミュニケーションよりも、相手がほんとうの他者であった場合には、コミュニケーションは双方向的になり、それはよりお互いに他者志向性を深めていくという同期行為となります。



他者との心象同期

「他者」とは、自他同期性という、同種においては先天的に密接なコミュニケーションが可能である存在である。そして「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする」こと、心象構造の同期行為である」(コミュニケーション自己構築論id:pikarrr:20040307)

人面岩や富士山やペットに見られた、惹かれるものに他者性を捏造する。あるいは、人は他者性に強く惹かれるという他者志向性は、本質的に本物の他者との同期行為を目的とした傾向ではないでしょうか。それはコミュニティを形成する力となります。

たとえば人はなぜ音楽が好きなのか。人が偶有的な音よりも、ある音階の組み合わせに心地よさを感じるのは、生理的なものかもしれません。そしてなぜその音楽にこころ惹かれるのか理解は出来ないが、そこには誰かがいる、私へのメッセージがある。それは実体としての歌い手よりも、神性を捏造された人(カリスマ)として現れます。

現代において、コンサートなど一人が歌を歌うのに多くの人々が囲うという風景は、冷静に考えるとある意味異様かもしれませんが、これはかつてと宗教儀式と近い構造をもっていると考えられます。そのような、神性をおびた他者の音楽に対して、多くの人が同じように同期行為を行えるということは、隣の聴衆とも同期しているのです。なぜ感動するのかはわからないが、同じことに同じように感動する人々は、コミュニティとして一体感を作ります。

人は意味を、他者からの、コミュニティからの意味として求めます。それは人が強く他者を求め、コミュニティに帰属することを求めているからです。




2 他者の特別性


他者の特別性


他者志向性とは、対象が「誰かの、何かのため(意味)」にあるということです。ここでは、人は偶有的な世界に因果律を捏造しています。すべての事象は、ある「他者の」原因によって起こっているということであり、すべての事象には他者が存在するということです。すべての意味は、他者の、コミュニティの意味です。

このように主体にとって「他者」はその根元において特別な存在なのです。その特別性とは、主体にとって他者とは「理解し合える」以前に、「同期」しあえる存在であり、「限りなく私」であるということです。このような志向性は、生理に求めることができるのではないでしょうか。たとえば犬は犬に同期する。ミツバチはミツバチに同期する。それは種のコミュニティの形成作用にもつながっていると思われます。

たとえば友達がすねを打って痛がっている場合に、主体は痛みを同期します。他者とのコミュニケーションはこのような同期をともなって行われています。「コミュニケーションとは、主体が主体の内部に起こった心象を客体の内面(心象構造)に再現させよう(複写)しようとし、客体が主体の内部に起こった心象を、客体の内面(心象構造)に(複写)再現しようとする。」

しかしこのような同期においては、完全に同期することはなく、主体と他者の間にはたえず差異が存在します。コミュニケーションはそのような差異を解消するように行われます。そしてコミュニケーションが言語によって行われている場合には、言語によって解消されない「心象的な」差異を生みつづけます。



差異化運動


たとえば、なぜ自分と「近い人」とのおしゃべりは楽しいのでしょうか。こどもはこどもと、アニメ好きはアニメ好きと、ガンダム好きはガンダム好きと語らうことは楽しいです。そのディテイルまで理解し合える相手と巡り会えることは少ないですが、そのような相手を巡り会い、コミュニケーションすることはわくわくする行為です。

より近い人と心象同期は、差異がより小さくなっていることを示します。そしてそれは、他者との関係性を密にしていると同時に、主体の単独性を高めているのです。たとえば、大人と子供がいると、それは大人と子供としてしか、差異化されません。しかしもし子供がもう一人加われば、それは「おとなしい子供」「活発な子供」と差異化されます。さらに「おとなしい子供」がもう一人加われば、「ぼつぼつしゃべる子供」「ほとんどしゃべらない子供」として差異化されます。このようにより近い他者は、私を複雑化します。すなわち私がなにものであるかをより明確化するのです。



私が私となるための他者


そしてさらにはこのような差異化は静的な位置の規定にはとどまりません。近い他者とのコミュニケーションは、差異化を動的に促進します。より細部において、近い他者との相違点を作り出す方向に向かいます。たとえば数学が得意な二人の子供がいれば、より違いを持とうと、互いに数学について競い勉強します。またマンガ好きの二人の子供がいれば、よりうまくマンガを書こうと努力します。

他者とのコミュニケーションは、私をつくっていきます。そしてより近い他者とのコミュニケーションは私をより詳細につくっていき、私はだれでもない私になっていく、単独性を高めるていきます。他者と「絆」を結ぶとは、単に他者と関係をつくることではなく、他者に対して、だれでもない人になるということです。それは「かけがえのない」人となることです。

これはコミュニティとしても現れます。たとえば音楽好きがコンサートで盛り上がり一体感をもつということは、外がから見ると、人々が均質化しているようにみえるかもしれませんが、内部では差異化運動が行われています。帰属意識を高めながら、単独性を高めているのです。すなわち他者とは主体の単独性を高め、コミュニティ内で他の誰でもない位置を見つけ、コミュニティを活性化するための特別な存在なのです。




3 世界の他者化


他者化


「誰か(他者)、何か(意味)」という他者志向性は、主体にとって「他者」が根元的に特別な存在ということであり、強く他者を求め、コミュニティへの帰属を求めているということです。他者志向性はコミュニケーションにおいて心象の同期であり、それによってコミュニティ内の誰でもない位置(単独性)を見つけます。すなわちコミュニケーションとは、コミュニティにとって活性化であり、主体にとっては私を絶えず再生産されつづける行為ということです。

たとえば、大切にしている人形であったり、自分の写真が傷つけられると、いい気持ちがしないのはなぜでしょうか。それは所有物が傷つけられことによるのでしょうか。では私の所有物でない人形、顔写真が傷つけられたときには平気でしょうか。

これは一方向的な読み込みになりますが、主体が対象に同期していることを表しています。他者志向性は、人の認識全般であり、それが人物でなくとも、対象全般が、「誰か(他者)、何か(意味)」という他者志向によって、他者化されます。



言語による世界征服


たとえばひとけのない不気味な沼があるすると、そこに河童が住むという噂ができます。河童とは「他者」であり、沼は河童のテリトリーであり、不気味な沼は他者化されます。このようにして未知は、「他者(限りなく私である存在)」のものとして、征服されます。死後の世界には神様がおり、暗闇には幽霊がおり、宇宙には宇宙人おり、この世界そのものには神がいます。

これらは未知への不安を解消するために捏造された他者です。この捏造された他者はそれが誰であるかよりも、未知を征服するものとして現れます。他者志向性とは、世界すべてを他者化することであり、言語化することであり、記号に回収することであり、世界を征服することです。

捏造された他者は、未知に対する不安を元にしており、意味は言語化されない余剰として残ります。そして意味はあとから余剰を解消しながら、様々に神話として作られていきます。

このような征服指向は、人の志向性そのものを表しているといえるのかもしれません。未知(謎)を執拗に解消する行為は、「好奇心」「挑戦」などといわれますが、アダムとイブ、パンドラの箱など、神話においても人の根元的な特性として描かれています。さらにこれは細菌が増殖していくような生命的な特性であるともいえるかもしれません。

現代、世界を説明するのは、神話から科学であり、哲学へと移っていますが、これらも神話の一形態であるといえるかもしれません。この世界には、「人間」にとって、何らかの意味があるという他者志向によって、物語が作られています。
*1