非金銭経済の可能性(改訂)

pikarrr2009-06-16

1 「生産消費者(プロシューマ−)の復活」
2 「資本主義活動」という社会的寄生物
3 「創造消費者(ネオプロシューマー)」の登場 
4 Googleはトフラーの夢をみるか
5 アーキテクチャの経済性
6 環境対策でこそ生産消費者は復活するか




20090609132216







1 「生産消費者(プロシューマ−)の復活」


非金銭経済から金銭経済へ


アルビン・トフラーは1980年の著書「第三の波」ISBN:4122009537)の中で消費者が生産に加わることを、消費者(consumer)と生産者(producer)を組み合わせた造語としてプロシューマー、生産消費者(prosumer)と呼んだ。

生産消費者(プロシューマー)はなにも特別な人ではなく、炊事洗濯掃除などの家事仕事から自己学習、趣味など、「販売や交換のためではなく、自分で使うためか満足を得るために財やサービスを作り出す」という誰もが普段行っている非金銭経済活動である。

産業革命前、ほとんどの人々は農耕によって生活を立てていた。人々はみずから生産手段(農業)によって自給自足していた。また多くにおいて協力が必要であり、密接な地域共同体に帰属していた。これらすべて貨幣を介さない非金銭経済である。

いまのような金銭経済が中心になるのは、産業革命以降に生産が分業体制になってからである。人々は労働力を企業に売り、企業は多くの労働力を分業体制に配置して、効率よく商品を生産する。そして労働者は生活に必要なものを労働力と引き替えた貨幣によって購入する。

労働者は自らの生産手段を持たないために、生きていくためにの必要なもののほとんどは商品として市場になければならないが、分業体制によって経済全体の生産性は飛躍的に向上し、有り余る商品が供給されるようになる。すなわち金銭経済はそれまでの非金銭経済を取り込むことで成長した。



非金銭経済を解体する金銭経済のどん欲さ


たとえば食生活について。非金銭経済では自ら育てた作物を自ら調理して食べる。金銭経済になると食材を購入する。最初、調理は主婦の生産消費活動だっただろうが、金銭経済は主婦の仕事を楽にする電気炊飯器、電子レンジなどを提供する、あるいはレストラン、スーパーの総菜、お弁当など食事そのものを提供する。

それによって主婦は家庭の生産消費活動から開放されるが、必要な貨幣を稼ぐために金銭経済へ参加(社会進出)していく。このように企業の生産活動は非金銭経済の生産消費活動をどん欲により込んでいく。

現代はもはや貨幣で買えないものがないのではないかと思える金銭社会になったが、そのどん欲さは時に滑稽である。たとえば家電製品の多くは過剰な機能がついていてほとんどの人が使いこなせないが、この過剰さも非金銭経済を取り込むどん欲さから来ている。ウォシュレットは便利ではあるが、自動で便座が開閉する機能は必要なのだろうか。便座の開け閉めという生産消費活動まで取り込むどん欲さには驚いてしまう。(笑)

あるいは掃除道具はなんと充実していることか。掃除道具はキッチン、風呂場、トイレ、畳、フローリングなどで別々に商品化されて、どこが違うのか洗剤も個別に商品化されている。

もはや消費そのものが娯楽になっているので、ドラッグストアーなどにいくと、その多様さに驚く。金銭経済は単に非金銭経済を取り込むだけではなく、有り余る力から新たな活動範囲(市場)を生み出すことで成長しつづけている。



ケインズ「倹約のパラドクス」


このような金銭経済の特徴を明確に描いたのが、ケインズ経済学の有効需要である。ここには「倹約のパラドクス」がある。ケインズ経済学によると、より多く消費することで有効需要が増大し、それに見合う生産量、そして雇用量を生み出される。だから倹約して消費を抑えることは、回り回って経済を停滞させ、所得を減らし、失業を増やすことになる。極端にいえば大いに無駄遣いすべきと言うことになる。

しかしまたケインズの経済学では、豊かさに対する危険も指摘される。それまでの古典派経済学では供給に対する需要、働きたい人に対する雇用が「均衡」されるという完全雇用な理想状態を前提している。

それに対してケインズ経済学では失業が存在する事実を説明する。企業側と労働者の雇用条件の交渉が不平等であることや、あるいは「富裕の中の貧困」と言われる経済全体が豊かになるほどに(投資が不足し)失業者、貧困者が生まれる構造を説明する。

全体が豊かになっても誰もが貧困になる可能性があるということは、日頃の備えとして貯蓄し倹約する必要があるが、それによって全体として失業、貧困を増やすというパラドクスがある。



貨幣依存による個人の孤立、弱体化


「富裕の中の貧困」が危険であるのは、金銭経済が発展した社会では人々は貨幣依存を高めているからだある。生活が商品購入によって支えられているために、仮に失業して収入がなくなるということは生きていくすべを失うことに等しい。

また貨幣依存社会の問題は、貧困になったときだけではない。生産消費活動力=生活力の低下は、豊かさの中でも問題を生んでいる。多くの社会的な問題は、生活力を身につけたり、他者との交渉するなど時間と手間がかかるものである。しかし貨幣依存社会ではお金を払うことで問題を解決されるために、手間隙かからずに速やかに解決される。そのために生活力や社会関係が身につかず、個人が孤立し、弱体する傾向がある。

たとえば軽い病気になった場合には、かつては家庭内で伝承された知恵や、お年寄りに相談することによって対処された。貧しいということもあったのだろうが、医者にいかずとも治療が行われた。最近、医者不足が問題になっているが、その要因の一つとして軽い症状でも医者に行ったり、救急車を呼んだりすることがあげられている。ここには貨幣依存、生産消費力の低下がある。

さらにはいじめやキレるなどの様々な社会関係の軋轢の問題も、人々の生活力に基づく、社会交渉力が低下していることが理由の一つと考えられる。あるいはモンスターと言われる現象は、孤立、弱体化した個人が不安に追い込まれやすいことを背景にしているのではないだろうか。



倹約は生産消費活動力を向上させる


経済学は国民総生産(GDP)によって評価するように金銭経済しか扱わないが、トフラーが指摘するには、「富」にはそれと同じだけの非金銭経済が存在する。倹約はお金を貯蓄しておくこととともに、貨幣に依存しない生産消費活動力を鍛える意味があるだろう。日頃の倹約による「生活力」を身につけることは、非金銭経済における生産性を向上させておくという「富」を増やすことを意味する。

たとえば社会的な人間関係を大切にする、仕事とは関係がない技術を学習する、あるいは体を鍛える、さらには家族を増やすなども、非金銭経済の生産消費活動力=生活力の生産性を向上させる行為である。富には給料、貯蓄など金銭経済だけではなく、非金銭経済における生産技術力も含まれる。



「生産消費者(プロシューマ−)の復活」


トフラーは「第一の波」(農耕社会)から「第二の波」(産業社会)において非金銭経済が金銭経済へ取り込まれていくのとは逆に、「第三の波」(知識社会)において生産消費者(プロシューマー)が復活するという。

「第三の波」(知識社会)とは、簡単にいえば分散化社会である。トフラーは社会の基盤として、時間、空間、知識の三項をあげている。第二の波では、知識は高価なものであって一部の者に集中し、労働者は分業体制の中で空間的な配置、時間的な同期が重視された。それに対して「第三の波」では、情報化技術によって知識は分散化することで、生産者と消費者の分離も解体されて、空間、時間も自由になる。

たとえば病気の例で言えば、医者という知識の権威に決まった時間に決まった場所に行きお金を払って見てもらうことが基本であった。しかし軽い症状であれば、ネットで検索する、掲示板で相談する、あるいは細分化され販売されている医療用品を購入し、自ら治療することで、わざわざ医者に行かなくても対処することが可能になった。

ネットの発達によって、アクセスできる大量の情報が蓄積され、安価で簡単な生産消費活動労働で有用な情報を入手し対処できる。またネット上に自らの体験情報を提供することで、社会全体の生産消費活動の生産性が飛躍的に向上する。

世界の富の創出の基礎にある・・・生産消費の価値が実際に、経済専門家が計測している金銭経済の総生産とほぼ変わらない規模があるのであれば、生産消費は「隠れた半分」だといえる。同様の推測を世界全体に適用し、とくに生産消費だけで生活している何億人もの農民の生産高を考慮すれば、おそらくは見失われている金額が五十兆ドルに達するだろう。

これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに逆の動きをとっている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動が急速に拡大しているのである。日曜大工やDIYの類に止まらない広範囲な分野で。この結果、まったく新しい市場が開かれ、古い市場が消えていく。生産消費の役割が拡大するとともに、消費者の役割が変化していく。医療、年金、教育、技術、技術革新、財政に大きな影響を与える。バイオ、ナノ・ツール、デスクトップ生産、夢の新素材などによって、過去には想像すらできなかったことが誰でも、生産消費者として行えるようになる世界を考えるべきだ。P294-296 


「富の未来」 アルビン・トフラー (ISBN:4062134527



2 「資本主義活動」という社会的寄生物


ブローデル 「資本主義活動」という社会的寄生物


ブローデルは大著「物質文明・経済・資本主義」の15‐18世紀初期資本主義社会の歴史研究の中で資本主義経済を3階立の建物に例えた。

3階 資本主義活動・・・投機、証券、銀行
2階 経済生活・・・「自動調整」市場、市・大市
1階 物質生活・・・自給自足

産業が発達する前、農耕が主流であり人々は自給自足=「物質生活」によって生活していた。これと並行して貨幣・商品交換による市、大市=「経済生活」はすでに都市をネットワーク的に結びつけ、生活を支えていた。そこでは自由主義経済としての(需要と供給の)均衡による価格自動調整が働いていたのである。

ここにはトフラーの「第一の波」「第二の波」などのように産業革命を基点とした非金銭経済と金銭経済の対立構図はない。非金銭経済の「物質生活」と金銭経済の「経済生活」は強調しつつ人々の「自然の」生活を支えていたと考えられている。

ブローデルが対立構図を見出すのは「経済生活」「資本主義活動」の間である。「資本主義活動」とは資本家や銀行などの投資活動である。「資本主義活動」は遠隔地交易や農地革命さらに産業革命など、国家権力と深く結びつきつつ投資による利潤をむさぼる「社会的寄生物」であったという。

理論的モデルと観察結果のこのつき合わせにおいて、私が始終気付いたのは、通常のそしてしばしば慣習的な(十八世紀では、自然のと呼ばれたであろう)交換経済(経済生活)と、より上位の、精緻をきわめた(十八世紀では、人工的なと呼ばれたであろう)経済(資本主義活動)との絶えざる対立であった。・・・

また市場経済の諸法則は、ある水準においては古典経済学が記述するとおりの姿で現われるが、より高度の領域・計算と投機の領域においては、自由競争というその特徴的な形態が見られるのがはるかに稀であることも。影の部分、逆光の部分、秘義に通じた者の活動の領域がそこからはじまるのであり、私は、それが資本主義という語によって理解しうるものの根底にあるのだと信じている。そして資本主義とは(交換の基礎を、たがいに求め合う需要におくのと同程度あるいはそれ以上に、力関係におく)権力の蓄積であり、避けられぬものか否かは別にして、他に多くあるのと同様な一つの社会的寄生物なのである。P2-3


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき」 ブローデル (ISBN:462202053X



投資が金銭活動の原動力


ブローデル「資本主義活動」の特徴は、市場秩序が未発達であったことにもよるだろうが、現代においても「金融資本主義」による独占として分析されるものに通じる。さらにはケインズ有効需要で注目したのは、「倹約のパラドクス」であるよりも投資の影響だった。

ケインズが指摘するのは株式投資である。投資家は事業とは関係なく、目先の利潤を求めて短期的に取引することで有効需要が不安定になり、人々の所得、雇用が大きく影響を受けてしまうと考える。これらに共通するのは消費は多くが生活に根ざしているのに対して、投資は生活から切りはなされた資金であり、金で金を増やすことこそ目的にすることの弊害である。

さらには投資においては、安定化した金銭経済よりも成長過程の方がリターンが大きい。あるいは開拓地(フロンティア)はまだ秩序形成が未熟である分、権力がものを言うだろう。ケインズは投資家の、リスクを恐れずリターンを求めるどん欲を血気(アニマルスピリット)と呼んだ。

われわれの積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ、快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりは、むしろおのずと沸きあがる楽観に左右される・・・その決意のおそらく大部分は、ひとえに血気(アニマル・スピリッツ)と呼ばれる、不活動よりは活動に駆り立てる人間の本来の衝動の結果として行われるのであって、数量化された利得に数量化された確率を掛けた加重平均の結果として行われるのではない。企業が設立趣意書の口上に依ってたいてい動いているように見えたとしても、それは表向きにすぎない。たとえその口上が腹蔵のない誠実なものであったとしても、そうなのである。企業活動の将来利得の正確な計算にもとづくものでないのは、南極探検の場合と大差ない。P223-224


雇用、利子および貨幣の一般理論 ケインズ (ISBN:4003414519



「第三の波」により金銭経済の勢いは増した


トフラーがいうように「第三の波」において金銭経済と非金銭経済が協調するのではなく、現代においてネオリベラリズム新自由主義)などと言われるように、金銭経済はさらに躍進しているように思う。

たとえば最近の資本投資の「寄生」先の代表はグローバル市場と金融市場だろう。これらは「第三の波」の情報技術を大いに活用して成功している。グローバリズムの本質は、有望な後進国へ投資することで高度成長期を起こして、高い利潤を生み出すことである。BRICsなど有望は後進国へと投資マネーが流れ込んでいる。

金融市場とは様々な対象を金融商品化することで投資対象とする。投資そのものを商品化することで自己増殖するバブルな市場である。これには先進国で金が余っているが投資先がないということから来ている面があるだろう。

トフラーは「第三の波」では金銭経済の一部を「生産消費活動の復活」によって非金銭経済が取り戻すだろうと考えたが、そもそも金銭経済の本質は非金銭経済と接する生活のレベルにあるわけではなく、「資本主義活動」という投資のレベルでどん欲に推進されている。

資本主義の総合的な歴史にとって基本的な、その特質を強調しておこう。すべての試練に耐えるその柔軟性、その変形と適応の能力である。私が考えるように、十三世紀のイタリアから今日の西洋まで、資本主義がある一体性を持っているとすれば、まず第一に、資本主義を位置づけ、それを観察すべきなのは、この特質のあらわれにおいてである。・・・

全体的な経済の規模において、資本主義が成長するについて、商品から金融へ、そして産業へと資本主義が順次移行した−成熟した段階、産業の段階のみが「真の」資本主義に対応する−というような単純な見方はつつしまなければならない。商業的と言われる段階においても、産業的と言われる段階においても資本主義はその基本的特質として、重大な危機あるいは利潤率の目立った減少の際には、ほとんど瞬時に一つの形態から他の形態へ、一つの部門から他の部門へと移行する能力を持っていたのである。P179-180


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき2」 フェルナン・ブローデル (ISBN:4622020548

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3 「創造消費者(ネオ・プロシューマー)」の登場


金銭経済に利用される「生産消費者」


トフラーのあげる「生産消費者の復活」の一例にセルフサービスがあげられている。たとえばマクドナルドでは客は自らカウンターにならび食事を受け取り、テーブルに運び、食事後に自ら片づけるというセルフサービスを行う。これによって店側の人件費を削減でき、食事代も安くなっている。

店側としては1回の食事による売上げは減るが、低コスト化によって客を増やすことで全体の売上げを増やすことができる。現にセルフサービスが低価格化の手法として一般化することで、消費者の生活の中で外食がより身近なものになり、金銭経済が増え、家庭で食事を作るという非生産経済は減少している。

あるいはトフラーがあげる生産消費者の例に日曜大工など、完成品を購入するのではなく、自分で作るということがある。しかし森に住み木を切りだし・・・ということではなく、日用品の大型マーケットには、様々な材料、道具がすでに使いやすくそろえられて、消費者は買ってきて、DIYに工作する。そして多くにおいて完成品を直接買うよりもコストがかかったりする。

トフラーの「第三の波」は知識を分散化し、金銭経済と非金銭経済の境界を解体しつつあるが、むしろそこに新たな金銭経済市場=「開拓地(フロンティア)」が生み出されている。そこではむしろ生産消費者は利用されている面が強いのではないだろうか。




ニコニコ動画のあのパワーはなんだろうか


非金銭経済において、おもしろいのは「ネット住人たち」の活動だろう。掲示板、ブログなど貨幣対価なく、懸命に労力を割いている。たとえばニコニコ動画のあのパワーはなんだろうか。あれだけの労力が金銭経済に振り向けられずにいる。あるいはニコニコ動画を楽しむことで失われた金銭経済への消費(時間)はどれほどか。ネット上の「浪費」を国民総生産量に加えると確実にここ数年の日本の慢性的な低成長グラフは大きくかわるだろう。

ある人に限られた一日の余暇時間があるとして、それをなにが独占するのか。テレビか、ゲームか、ネットか、ケータイか、音楽か、というのは、いまや金銭経済の企業にとって重要問題になっている。そして多くの若者はネット(ケータイ)に時間をかける傾向があり、テレビ、ゲーム、音楽などの売り上げが減少している。

ネット上では有用な情報を無償で提供する人は「神」と呼ばれる。彼らはその情報でお金を稼ぐのではない。あるいは彼らが多くにおいて知的所有権を無視するからといって、金銭経済へ反抗し、「革命」を起こしたいわけでもない。



「創造消費者(ネオ・プロシューマー)」の登場


ネット住人はトフラーがいう「生産消費者」でありつつ、生産消費者に比べると、生活に根ざすと言うよりも、知的な領域において創造性を遊ぶ傾向がある。彼らを新たに「創造消費者(ネオ・プロシューマー)」と呼びたいと思う。

生産消費者(プロシューマ)が家庭仕事など誰もがもつ一面であったように、創造消費者(ネオ・プロシューマー)も趣味を楽しむなどのように誰もがもつ一面である。これらの境界を引くのは難しいかもしれない。例えば魚釣りを楽しむことは、創造消費な趣味であるが、それが食料になれば生産消費ともいえる。本を読むことは創造消費な趣味であるが、その知識が生活に役立てば生産消費である。

創造消費者は「経済性」には無頓着である。彼らはいわば「関心」を集めることを望んでいる。特にネット上の「関心」はWeb2.0などと呼ばれるように、創造、消費、創造、消費・・・という運動を生み出す。そしてそこに帰属意識が生まれる。

トフラーが「生産消費者の復活」というとき、「物質的に豊かな安定した生活を目指す」という「経済」的が強いのに対して、「創造消費者」は「社会」的である。いわば創造消費者は非金銭経済ではなく、非金銭「社会」の住人なのである。



創造消費者は金銭経済を活用する


だから創造消費者の活動が金銭経済を活性化させることもあれば、対立することもあるだろうが、それは偶然でしかない。

ほとんどの創造消費者は、生活の糧を金銭経済の生産活動に従事することでえている。現代の発達した金銭経済が生み出した生産性の高さに依存して、僅かな労働で少しでも多くの商品を得ようとする。それによってネット上の非金銭「社会」での創造消費者として時間を生きることができる。だから彼らは生活の糧においていままで以上に金銭経済=貨幣依存した人々であり、また活用している。

インターネットは、電子メールが配送され、ウェブページが公開される媒体だ。アマゾンで本を注文したり、近所の映画館で上映時間を調べたりするのに使うものだ。グーグルも、マイクロソフトの「ヘルプページ」もインターネット上にある。

だが「サイバー空間」はそれ以上のものだ。インターネット上に構築されてはいても、サイバー空間はネットよりは豊かな体験だ。サイバー空間は「中に」引き込まれるものだ。それはメッセージのチャットが親密なせいか、超多人数オンラインゲームが細密なせいかもしれない。サイバー空間にいる一部の人たちは、自分たちがコミュニティに属していると信じている。そして自分の実際の存在とサイバー空間内での存在とを混同したりする。もちろんインターネットとサイバー空間をきちんと隔てる明確な一線はない。だが両者には重要な経験上の差がある。・・・サーバー空間はますます第二の人生となりつつある。P13


「CODE VERSION 2.0」 ローレンス・レッシグ (ISBN:4798115002



「生活への資本の全般的支配」「全面的に逃れるための可能性」


トフラーがいう「生産消費者の復活」を左派側から分析したものにネグリヴィルノなどイタリアのアウトノミア(左派)がある。

高度成長期には、フォーディズム、テイラーシステムなど生産の効率化が進められ、労働者は空間、時間的に工場に組み込まれていたが、成熟期を迎えてもはや高い経済成長率が見込めないことで、ポストフォーディズムの時代に入る。

企業は労働者を抱え込むことが困難になり開放する。それとともに高い生産性を求めることで、工場と社会、生産と消費の境界が解体されて、労働者は日常の中で自らを高めるために興味があることを学習する、あるいはパート労働者として必要なときに働くことになる。

このようなネオリベラルな状態を、「生活への資本の全般的支配として解釈するのか、それともそこから全面的に逃れるための(労働者の)高度の可能性として解釈するのか」前者が左派であり、後者がトフラーなどの保守派(中道右派)とともに、リベラル(中道左派)である。

日本の派遣社員は雇用の調整弁として問題なっているが、景気が良いときは新たな自由なライフスタイルと言われたこともあった。さらにいえば、このような対比そのものから退避するのが、オタク、ネット住人などの創造消費者である。生産性が向上した生産現場で生活の糧をえて、残りの時間で「第二の人生」を生きる。

知的労働あるいは非物質的労働は、労働時間と非労働時間とを明確に区分しない。たとえば商品の企画、アイディアをひねり出す作業。それは、職場から帰ったあとも、飲みに行こうが風呂にはいろうが、寝つくまえのベッドだろうが私たちの生活にとりつくだろう。この労働は、それが支出する場所も時間も特定することはないのだ。・・・その平面は、一方では、新しい権力テクノロジーをむすびつき社会総体を利潤生産の場として形成することで「資本による実質的包摂」の完成をしるしづけている・・・この平面を利潤形成へと向けて収斂させて解釈するのか、つまり生活への資本の全般的支配として解釈するのか、それともそこから全面的に逃れるための高度の可能性として解釈するのか、それが問われている。

知の社会化を表現する言葉が、「大衆知性」である。・・・大衆知性とは、「水平的に社会を横断して拡がる集団的インテリジェンス、蓄積された知的力」であり、特定の集団にのみ限定されるものではない。・・・それは多かれ少なかれ現代社会の人間総体を規定している。こういう概念によって示されているのは、ポストフォーディズムの資本主義における開放的ポテンシャルを明確に指示するためである。・・・資本は現在こうした実践を自らの価値形成の源泉としてそのまま組み込んでいる。資本は労働者の協働にとって外部からコマンドを下し、そしてその生産物をわがものとする、その意味で、資本はますます「寄生的」性格を剥き出しにしているのだ。P45-48


「自由論」 新しい権力地図が生まれるとき 酒井隆史 (ISBN:9784791758982



4 Googleはトフラーの夢をみるか


「政治」は経済と社会の分断をつなぐ


創造消費者に見られるのは「経済と社会の分断」である。このように経済と社会の分断を生きることは目新しいものではない。近代化において、自由主義経済が離陸(テイクオフ)することで「社会」が切り離なされた。そして「第三の波」においても近代の分断は継承されているということだ。

トフラーは「経済」を中心に語り「社会」については積極的に語られない。ここには「経済」における分配が成功すれば、それにともない「社会」も同様に豊かになるだろうことが暗黙に前提とされている。このような経済重視はアダム・スミス以来の保守派(中道右派・(新)自由主義)がもつ特徴だろう。

それに対して、社会主義(左派)は「経済」「社会」の分断を疎外論として問題視してきた。だから「いかに分断された経済と社会を調和されるか」ということが重要である。左派は共産主義国家として現実化されそして失敗したが、このような根本的な左派議論はリベラル(中道左派)として現代も継承されている。たとえばネット社会においてもグローバルビレッジクリエイティブコモンズなどで繰り返し回帰する。

このように「経済」「社会」の分断を繋ぐのは「政治の領域」である。いまや金銭経済が中心であることはかわりがない。保守派(中道右派)は金銭経済の自由な活動を重視し、そこに社会はついてくると考える。リベラル(中道左派)は金銭経済に任せることはできず社会側の積極的な活動が必要であると考える。

「第三の波」における経済と社会の分断


 金銭経済・・・さらに活性化(非金銭経済(生産消費者)の利用etc)

 −−−− 分断 −−− 「政治」の領域 −−−−         

 非金銭「社会」・・・創造消費者の誕生。経済よりも社会を重視。



Googleのリベラル思考


現代においていかに経済と社会を繋ぐかを考えるときに注目すべきはGoogleだろう。Googleは金銭経済と非金銭「社会」の間に立ち位置を占めることで成功している。

ネット上の非金銭「社会」の有象無象の情報を整理することで「価値ある」ものとして提供する。あるいは逆に実社会の金銭経済の情報資源を取り込みネット上で無償提供する。またはアドセンスでは非金銭「社会」「関心」を金銭経済の貨幣価値へ変換する。これらによって経済と社会を繋ぐ役目を果たしている。

Googleの新しさは、経済と社会の接合を「人間の介在」なしに自動的に事を成していく」、すなわちアーキテクチャによって行おうということである。

たとえばG-mailは無料である分、そのメールの内容にあわせた広告が挿入されるが、メールの内容を見ることはプライベートの侵害ではないかと問題視されたとき、「人間の介在なしに自動的に」アーキテクチャによって行っているので侵害ではないと反論した。そこに「政治」がないことで権力の発生をさけることができる。

またGoogleは金銭経済からのネット上に無料で情報を提供するという「知の分散化」、あるいはアドセンスは非金銭「社会」での創造消費者へ「富を分配」などにリベラルな思考を見ることができるだろう。

「グーグルは検索エンジンの会社」というのが一般的なグーグル理解であるが、実際にグーグルが行っているのは、知の世界の秩序を再編成することである。

権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、「世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイト相互に張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランクアルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して地を再編成するから「民主主義」P53-54

サイト運営者はアドセンスに無料登録し、そのウェブサイトを粛々と続けて集約するだけで、月々の小遣い稼ぎができるようになるのだ。

リアル世界における「富の分配」は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行われるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある。しかし、いかに対象が厖大であれ、インターネットにつないでさえいれば、その対象は同時にきめ細かく低コストで処理可能である。グーグルはそんなインターネットの本質を具現化することで、リアル世界における「富の分配」カニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流して大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端に一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしている。74-77


ウェブ進化論 梅田望夫 (ISBN:4480062858



Googleの保守派(新自由主義)思考


しかし現実問題としてアドセンスによって収入を得るためには相当の労働が必要である。労働に対する収入、そして長期的な安定性を考えると、バイトで金を稼ぎ、余った時間で気楽にネットを楽しむ方がいい、というのは一般的な見解ではないだろうか。

アーキテクチャによる管理では金銭経済と非金銭「社会」は分断を維持しつつ、活発な活動を行うことで気が付かないうちにアーキテクチャによって調整されている。リベラルとしては弱く、保守派(新自由主義)の楽観主義と高い親和性を持つと言えるだろう。

またアーキテクチャによる政治の透明化については、リベラル側からは強い警告がある。有名なものがレッシグ「コードは法である」ことからは逃れないだろうということだ。またアーキテクチャが透明な環境として受け入れられつつ強い権力を発揮することを東浩紀「環境管理権力」として警告している。

現実にGoogleEarthのプライバシーの問題や、あるいはGoogle村八分などの問題、そして中国政府による検閲を受け入れている事態も起こっている。

結局のところ、Googleアーキテクチャのスタンスは、あくまで物言わぬ道具(武器)であり、リベラルな生産消費者となるか、保守派の創造消費者となるか、は使う人次第ということだろう。

たとえば、ポルノや麻薬売買など、特定の情報を排除するフィルタリング機能を実装したブラウザを導入すれば、利用者にはそれら「悪質」な情報は完全に見えなくなってしまう。これは、従来の法や規範よりもはるかに完成度が高く、しかも反発を招きにくい規制である。そして情報化が進むとともに、それらネットワークのアーキテクチャは、実体世界の生活にも大きな影響を与えるようになっていく。このような状況を受けて、レッシグはいまコードは「権力」だと述べている。

・・・レッシグは『CODE』の補遺で、アーキテクチャ「主観化がまったくなくても制約できる」のが特徴だと述べていた。アーキテクチャ上の制約は、その対象者がその存在を知ろうと知るまいと機能するけれど、法や規範は、その対象者がその存在についてある程度知っていないと機能しない」。ここでアーキテクチャ上の制約」と呼ばれているものの特徴は、前述の(環境)管理型権力の特徴にきわめて近い。


「情報自由論」 東浩紀 http://www.hajou.org/infoliberalism/3.html



5 アーキテクチャの経済性


日本のWebは「残念」 

日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045_3.html


英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人たちが知をオープン化しているという現実もあるし。途上国援助みたいな文脈で教育コンテンツの充実みたいなのも圧倒的だし。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。SNSの使われ方も全然違うし。もっと人生にとって必要なインフラみたいなものになってるわけ。日本のWebは、自分を高めるためのインフラになっていない

ネットはすごくニュートラルなものでしょ。道具だから。上から下まで正規分布みたいになるよね、普通。ニュートラルなものって。ニュートラルなものって相対化されるじゃない。いいことから悪いことまで全部出てきて、悪いところは相対化されるじゃない。いいとこもあれば悪いところもあるよね。日本のネット空間もそうなんだけど。その比率がずいぶん違う感じがするなあ。

日本のサブカルチャー領域でのWeb文化の隆盛は十分に分かっていて、敬意を表しています。だから、今さらそういう事例について議論しても、日本のWeb文化が特に変化したとは思えないんだよね。ただ、素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。

最近、ブログ界隈で梅田望夫「日本のWebは「残念」発言が話題になっている。ここに先の「リベラル(中道左派)な生産消費者」「保守化(中道右派)した創造消費者」の差異を見ることができるのではないだろうか。

アメリカのネット文化を支えるのはリベラルな生産消費者であり、日本のネット文化は保守化した創造消費者である。リベラルな梅田は日本のネット文化の保守傾向を「残念」と呼ぶ。



iPhoneは「武器」である


このようなIT産業のリベラルな思考はパソコンからつづくものである。かつてコンピュータは大型で高価で限られた資源であったが、マニア達がガレージでパーソナルコンピューターを開発し世界へ広まっていった。ここには「知の分散化、開放」という成功したリベラル(アメリカ左派)像がある。

いまではビジネスユースを中心に世界中に広まったパソコンであるが、いまだにリベラルなイメージは残っている。その象徴がアップルだろう。アップルユーザーは製品の使用価値以上に製品に強い思い入れを持つ。その最近の例がiPhoneである。アメリカ人にとってiPhoneは単なるコミュニケーションツールである以上に、知を分散・開放するモバイルなプラットフォームであり、「大きな権力」に対する「武器」なのである。



ケータイの普及と日本のネットの保守化


日本のパソコン、ネット文化も最初はアメリカからリベラルなイメージを受けて輸入された。たとえば2ちゃんねるもその始めには知識人が多く参加して、高度に生産的な議論が行われていたという神話がある。あるいはいまもブログの一部ではリベラルなイメージが保持されているだろう。

それが大きくかわってきた一つは、日本でのケータイの普及だろう。ケータイは世界に先駆けて日本で爆発的に普及した。そして最初に女子高生のコミュニケーションツールとして流行ったといわれるようにそこにリベラルなイメージはまったくなく、「保守」のイメージをもって受け入れられた。

そしてケータイを通して保守ユーザーが上陸し始めたことで、日本に残っていたリベラルな空気は吹き飛ばされてしまった。もはや日本でiPhoneに熱狂するのは旧世代のユーザーのみである。



企業中心社会と保守思考


日本人の保守思考といっても、リベラルに対抗したネットウヨのような政治的な意味を持つのは一部である。そもそもネットウヨ自体も政治的な意味をもつか疑問であるが。

日本の保守思考を支えるのは企業中心社会である。日本人は「市民」である前に企業に帰属する生産者(の家族)である。政治的な発言は企業を介して政府へ行われる、というか政府と企業がうまい具合に調整し、企業に帰属する生産者たちに悪いようにはしないだろうという漠然とした信頼がある。

ここでいう企業とは自分が働く会社である以上に「企業中心社会」である。だから重要であるのは「企業社会」への帰属であり、継続したコミュニケーションという「社会」へのつながりの維持である。

たとえばケータイはせっかく日本で発達したのに世界標準化できずにガラパゴス化したとして、日本企業の閉鎖性を示す失敗例としてよくあげられる。確かにその理由も大きいだろうが、海外において携帯電話はモバイルなパソコンとして受け止められているために、日本のケータイがもつ独特な保守思考が受け入れられなかったのではないだろうか。



サイバーリバタリアは経済性をめざす


梅田はこのような日本のネット文化の保守化、「社会性」重視にいらだっている。金銭経済に充足しつつつながり遊ぶ保守思考の創造消費者ではなく、金銭経済に依存しないインフラを自立的に構築しようとするリベラルな生産消費者であれ。「大きな権力に取り込まれるな。武器をもて。」と。

このようなリベラルな「説教」は日本では退屈なものとなっている。このような単純な構図にはすでに「人生にとって必要なインフラみたいなもの」というような経済的な価値が固定されているからだ。

現代の金銭経済の潮流において、保守思考の創造消費者とリベラルな生産消費者がともに金銭経済を基本とするが、むしろ「経済性」を重視する生産消費者の方が金銭経済との関係性が深い。

レッシグなどのより左側のリベラルは、梅田のような「サイバーリバタリアニズムなスタンスを、楽観的な「価値中立」信仰であると批判している。さらにはネット上のアーキテクチャの特性は、Ver.1、2、3・・・と「経済性」を求めて容易に書き換えられていくことにある。

六〇年代に始まり、九〇年代に爆発した情報技術革命の原動力になったのは、ハッカーたちのリバタリアニズムだった。そこではコンピュータやネットワークは、個人の自由を支援する強力なツールだと信じられた。

・・・二〇世紀末の情報技術革命を支えた自由至上主義(サイバーリバタリアニズム)に注目した。情報技術が自由を拡大するというハッカーの信念は、いまや現実に裏切られている。その理由は、彼らが技術を価値中立的に捉えていたからである。特定のアーキテクチャを採用すれば特定の自由しか実現されない。


「情報自由論」 東浩紀 http://www.hajou.org/infoliberalism/



投資の贈与交換性


ここで議論になるのは「経済とは透明か。」ということだろう。経済は合理的に作動する機械であるということではなく、一つの生き物であり、そこには変化させる「資本」という動力がある。

商品等価交換は機械的な作動であるが、投資は違う。投資は交換を時間的な延滞することで、そこに「信頼」が入りこむ。言わば贈与交換である。商品等価交換には貸し借りのような関係はなく、瞬間的で関係性は解消される。それに対して贈与交換は貸し借りという関係を継続することでそこに力関係が生まれ、力の場に人を拘束する。

基本的には貨幣交換には純粋な等価交換は存在しない。10円でガムを買う場合でさえも、どのメーカーのガムで、どこで買うかなどの関係があり、そこに小さな贈与交換性が生まれている。さらに賃金に特徴的である。なぜ労働力と賃金は等価交換されているはずなのに、多くにおいて労働者は企業に負債感を持つのか。あるいはバイトでは負債感が低く、等価交換に近いのか。



資本関係の力学場


労働者の負債感は企業への帰属意識を生み出し、さらに習慣化することで「規律訓練」として作動する。これは贈与交換の特徴そのものである。ここで重要であるのは、ただ「規律訓練」心理的な力ではないということだ。規律は環境へと具現化して、人々はそこで生きることで訓練され、習慣化されている。

あるいは現代では、環境も流動性が高いためにコード化されて、アーキテクチャとなる。レッシグアーキテクチャを自然環境とのメタファーで語るが、現代のアーキテクチャの特徴はコード化され、力によって容易に変化することである。

資本の特性を、忘れてはいけないのは、贈与関係―規律訓練というミクロな力関係は「統治」というマクロな視点を持って設計する、ということだ。この視点は貨幣という価値の一元化が可能にする。物象化論に従えば社会関係は貨幣商品の関係に代替される。一元化した価値はマクロな「見通し」を与える。

すなわち資本は本質的に利潤という落差をもって力学場を形成し、アーキテクチャを変形させ、人々を配置、そして流動化させる。それが「資本優位のフレキシビリティ」である。

政府、投資家、銀行、企業、労働者、消費者・・・は擬似的な資本という擬似贈与関係の力学で結ばれている。「生産消費者の復活」も、Googleアーキテクチャも、サイバーリバタリアンも、環境対応も一つの力学場として捉える必要がある、いうことだ。



6 環境対策でこそ「生産消費者」は復活するか


アメリカのリベラルな環境対策の失敗


オバマが就任直後に、今後アメリカが地球環境対策を牽引するという発言をしたのには笑った。すでに2周も3周も遅れている。ブッシュは産業優先で環境対策には消極的であった。最後にとってつけたようにバイオエタノールに走った。たしかにバイオエタノールは技術的に容易であるが食料をエネルギーに回すようなことは先進国がとる政策ではない。案の定、食料供給問題となり顰蹙をかった。

しかしアメリカははじめから環境対策後進国であったわけではない。いまの環境対策の象徴的な燃料電池ブームはアメリカからはじまった。原理自体は古くからあるが、アメリカのベンチャー企業がその製品コンセプトを提示し世界的なブームが起こした。

ブームの理由の一つには燃料電池がパソコンのメタファーを持っていたからだ。電気は大手電力会社から供給されているが、燃料電池は各家庭でエネルギーを生み出す、というエネルギーの分散と開放化というリベラルなイメージが熱狂を生んだ。一時、ITの次はエネルギーだと株価も上がった。

しかし結局、パソコンのようには成功しなかった。その理由は技術的なハードルが高かったこと、またパソコンに対する大型コンピュータとは違い、電力はすでに電力会社から十分安価に供給されていた。

オバマは環境対策に太陽電池の普及をあげているが、政府主導の公共投資の面が強く、もはやリベラルなイメージはない。



アーキテクチャ型の環境対策


環境対策は製品や生産工程への追加の負担を要求する。このためにコストアップにならざるをえない。消費者は地球環境のためだけを思って高い環境対応製品を買うということはない。このために環境対策は政府の規制や補助金などの推進がなければ進まないのが現実だろう。

とくに日本は企業中心社会であり、政府は企業へ強い環境規制をかける。たとえば省エネ規制では、省エネ基準をクリアーした商品のみ販売するように義務づける。そして今回のエコポイントのように補助金で販売を促進する。

消費者の負荷は、税金が環境対策に使われることと、企業内の生産者として環境対策を検討することである。消費者に直接、環境規制をかけることは避けられる。監視が難しいことと、節約、倹約のような市民主導の環境対策では、消費欲が抑えられて経済成長が停滞するからだ。ここで目指されているのは、アーキテクチャ型の環境対策といえるだろう。消費者は普通に経済活動すればよい。「人が介することなく」設備が環境対策を行っている。

自由経済グローバル化したいまでは、どの国でも多かれ少なかれ、このような政府・企業を中心とした保守化した環境対策が主流になっているだろう。



保護主義化する環境対応


このような保守化した環境対策の成果はいまのところ目標にほど遠い。日本企業はその技術力を駆使して高い規制をクリアーしているが、日本のCO2排出量は京都議定書の削減目標どころではなく、むしろ増え続けるばかりである。さらに洞爺湖サミットでは2050年50%削減のようなより大きな目標を掲げている。しかしまったく先がみえない状況である。

それにも関わらず、環境対策は重要になっている。なぜなら新たな「環境対策市場」を生み出しているからだ。人々の環境意識が高まり、環境対策製品であることが製品の付加価値となっている。このために根拠があやしいまま「地球にやさしい」ことをPRする製品が氾濫し問題になっている。

また高い環境目標を達成するためには高い技術投資が必要である。そして高い技術力をもつ企業に政府の補助金が投資される。これによって市場から低級品を淘汰することができ、大手企業に優位になっている。さらにグローバルでみれば、今後、後進国でも環境規制が進めば、日本の環境技術は大きな付加価値となるだろう。すなわち環境対策市場は保護主義的な面を強く持ちつつ広がっている。



環境対応に寄生する「資本主義活動」


環境対策に関係するもう一つの問題が資源問題である。この世界不況の前、石油や希少金属が高騰し、世界的な問題になった。その理由としてはBRICsなどの経済成長があげられるが、すぐに資源がなくなるということではなく、将来の経済成長にむけて国家単位で資源を確保に向かった。そこに「投機」が乗っかり、資源価格が高騰したといわれる。この世界不況が落ち着けば再び資源投資が活発化するだろう。

このように環境問題は国家戦略が交差しつつ、新たなイノベーションの領域、すなわち「資本主義活動」が寄生する開拓地(フロンティア)を生み出している。ここにあるのは、消費者・生産者レベルのアーキテクチャ型の環境対策と、政府・投資家レベルの新たな市場誕生というかわらない資本主義の階層である。

政治をアーキテクチャのような透明なものと考えてはいけない。アーキテクチャはリベラル、保守派を溶解するようであるが、基本はマクロなコンテクストから設計されている。マクロなコンテクストは経済的効率を指向する。そこにあるのは「資本主義活動」の力学分布である。



環境対策こそ真の「生産消費者の復活」


トフラーが「富の未来」の中で環境問題について多くを語っていないのは奇妙である。環境対策社会は情報社会とはまた異なる様相が求められており、「第四の波」の可能性がある。

いまの経済中心な保守化した環境対策は、結果を出せないだろう。本当に結果を出すためには金銭経済、動力としての「資本主義活動」を抑制せざるをえない。それによって世界が貧しくなるのではなく、生産消費者たちの非金銭経済が富の体制を底上げして、倹約しつつ豊かな社会を実現する。まさに「非金銭経済」が重要になるのではないだろうか。

これは「世界革命」である。逆に言えばそこまで行かなければ、真の「生産消費者」は復活しえない。それより各地で戦争、紛争がおこり世界経済が停滞し、結果的に環境負荷が下がる方が現実的だろう。

このような左派のビジョンは、保守派であるトフラーには受け入れられないだろう。それまでポストフォーディズムはある地域ある時期であってもトフラーの夢は実現されつつある。

パートタイムが当たり前で、DIY(Do It Yourself)の手仕事に積極的で、自宅は安価なミニ・テクノロジーでいっぱいであるような世代が、人口の大半を占める時代が来るだろう。彼らは半ば市場に頼り、一年じゅう働くかわりに、ときには一年間の休暇をとり、収入は少なくても、費用のかかる仕事を自分でやって補いをつけ、インフレの影響をやわらげる。P368


「第三の波」 トフラー (ISBN:4122009537

(完)

*1:参考:なぜブローデルは透明な市場を夢見るのか フェルナン・ブローデル「交換のはたらき」その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090215#p1

*2:なぜ産業資本主義は無限に利潤を生み出すのか フェルナン・ブローデル「交換のはたらき」その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090220#p1