いまの日本の何が問題なんだろうか? 保守とリベラル2

立ちすくむ国家か、人類史最強国家か


少し前に若手官僚がまとめた提言が話題になった。わかりやすい、なんとかしないと日本やばいとか評価されたが、よく見ると、本質的な問題がない。少しの金で安全で公平で便利で王様のように暮らせる、人類史最強の社会を、日本人は構築しちまったからね。これ以上社会になにを望むのか。

不安な個人、立ちすくむ国家〜モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか〜 次官・若手プロジェクト
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf




少子化と子供の貧困


いまの日本の何が問題か?強いて言えば、正社員既得権益利権社会だから、正社員の息子は、ひきこもりでも、フリーターでも好きにすればいいが、孫の世代まで金が回らないよな。息子は気楽で結婚せず子供を作らない。正社員利権を持たない息子に子供ができたら大変だよ。生活能力ないし。

すると、離婚して母子家庭になる。当然、妻も正社員利権を持たないから、パートで稼いで貧困。妻の親の正社員利権に寄生できればいいけどね。息子世代の結婚はリスクがあるから、少子化が進む。子供の貧困が広がる。




正社員利権が一番の社会保障


だから左派リベラルの社会保障の充実か。それは民主党時代に失敗している。そんなことしたら金がいくらあっても足りない。民主党時代みたいに日本沈没する。やはり日本は正社員利権をしっかり固めて、少しでも多くの正社員を作る。求人倍率上げて、なんと言っても新卒の就職率を上げる。日本では正社員が一番の社会保障だから。それでもこぼれるものには、今回、消費税上げて、学業無償化など、子供の貧困に対応はする。

日本の失業率の推移(1980〜2017年)
http://ecodb.net/exec/trans_country.php?d=LUR&c1=JP


就職内定率推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3160.html


第2次安倍政権の2012年以降は、いい感じに失業率下がって、新卒内定率は上がって、正社員利権という最大の社会保障が機能している。GDPとか、賃金アップとか正直どーでもいい。正社員利権は一家の命運がかかっている。少しでも多くの人が利権にありつくことで、金だけでなく、日本人の生きがいを生み出す。一人の正社員がいると何人が豊かに、安らかに、お気楽に、楽しく暮らせるか。

民主党の何がひどかったかって、円高放置だよな。経団連ブチ切れて、次々海外に工場作って、あのまま言ってたら、団塊世代の大量退職による失業率低下どころじゃなかった。




人口減少と移民誘致


あとは、人口減少だけど、これは世界的に解決は一つしかない。もう各国やってる。移民の受け入れだよ。日本もやるしかないし、実は大きな声で言えなし、政策に上げてないが、安倍政権はかなりの移民を受け入れている。世界で受け入れ人数五位だっけ?ほんとこれはこっそりやらないと、憲法改正の騒ぎではない。憲法はたかだか100年問題だが。移民は2000年問題だから。これだけはこっそりやる。日本の人口の1/3を移民にするから、気がついたら回りが外国人だらけだけど、仲良くしてくれ。持ち前の慈悲能力で乗り切ってくれ。




賃金アップより株価アップ


あとは、雇用は確保できたとして、賃金アップの問題だが、それは本当に無理。高度成長期ではないんだから。企業もリストラせずに雇用を安定させるために、内部留保貯めるから。企業から金を取る方法は、賃金と株がある。賃金アップは1回あげると下げるのが大変だから、企業もなかなか上げにくい。株は景気に連動するから、企業もやりやすい。安倍政権もNISAとか推奨してるだろう。賃金アップはあきらめて、株買って儲けてくれ。いま20年ぶりの高株価だし。

賃上げ無くても、ほどほどのデフレで物価も抑えてるし、100均ローソン行けば、贅沢し放題だし、あとは各自楽しくやってくれ。

なぜリベラルは日本から排除されたのか  保守とリベラル1

大リベラル、右派保守ネオリベラル、左派小リベラル


まず自由の思想には3種類ある。一つ目、フランス革命のときの自由思想。貴族制に対して市民の自由が求められた。これを大リベラルと呼ぼう。
次が、自由主義経済。イギリスのアダムスミスを祖とすると言われる。自由競争により豊かになると考える。経済的自由。この経済的な自由は、最近ではネオリベラルと呼ばれたりする。現在保守の一部と考えられている。アメリカで言うと、保守の共和党右派保守ネオリベラル。

ここでわかりにくいのが、第三のリベラル。いま、立憲民主党が呼ばれているリベラル。これは、アメリカでは民主党。経済的な自由の共和党と対立する。経済的な自由を抑えて、税金を増やして、社会保障を充実させる。そこにあるのは、普遍的な個人の人権の尊重。フランス革命のときの自由に近い。これを左派小リベラルも呼ぼう。大リベラル、右派保守ネオリベラル、左派リベラル。現代は、右派保守と左派リベラルの対立の構図で説明される。

日本では、右派保守ネオリベラルが自民党、左派リベラルが民進党の構図だった。実は前原は民進党にいながら、右派保守よりだった。でも民進党は左派リベラルに見られて、その意見が重視される。かといって、今さら自民党とは組めない。ブチ切れて今回、民進党を壊して、新たな右派保守ネオリベラルの希望の党に合流した。排除された左派リベラルが立憲民主党を作った。
前原の確信的クーデター。基本的に、自民党希望の党の政策は変わらない。ただ小池百合子自民党内では、小泉系で派閥的に弱くて首相になれないから、新しい党を作って党首になって、将来首相を狙う。




日本人総利権社会


では自民党はそんなに右派保守ネオリベラルか、アメリカの右派保守ネオリベラルの共和党とは違って、むしろ共和党に近かったりする。ここが日本の保守の難しいところ、さらに、そもそもが、戦前の国家社会主義右翼を継承して、戦後に自民党が作られた。その親玉の一人が安倍首相のおじいさんの岸信介なわけだけど。

伝統を重んじるという意味で右派。共産主義左翼に対しては経済的自由を重視してきたが、その裏でずっと国家社会主義を残してきた。官僚と政治家と国民の三つ巴の密接な利権関係。自民党は癒着構造として古い体質と言われるが、そこには大衆も噛んでいる。護送船団方式、終身雇用、年功序列などの国家社会主義的な体制が高度成長期を推進した。

いまも今回、左派リベラルが排除したように、日本人大衆はみんな右派保守が継続することで、暗黙の利権にありつけることを知っている。だから今回も右派保守、すなわち自民党希望の党は大勝する、実は首相が安倍になろうが、百合子になろうが、石破になろうが、大した問題じゃない。すでに今回小うるさい左派リベラルの立憲民主党が排除された時点で、日本人の審判は終わっている。

日本の右派保守ネオリベラルの強さは、経済的自由競争を進めながら、裏で政治家、官僚、国民の利権関係がしっかりできている国家社会主義が維持されていることにある。可哀想なのが、小泉政権時代に、本気で経済的自由競争が目指されて生まれた非正規世代だ。いまの新卒は、しっかり右派保守の利権に食い込むように正社員利権を目指し、安倍政権を支持している。日本ではとにかく正社員になれば利権にありつけるようになっている。

55年体制後、自民党が下野したのは二度。日本新党の細川内閣。これの仕掛け人は元自民党の小沢。右派保守内のいざこざで、左派リベラルと言えない。あとは民主党。これは確かに左派リベラルと言えるが、マスコミ左翼に乗せられて、埋蔵金が埋まっていると騙されて大衆はひどい目にあった。そこからいまの安倍政権、そして今回もすでに決まった右派保守の圧勝と、左派リベラルの排除が繋がっている。日本は、政治家と、官僚、大衆特に正社員の利権国家だから、右派保守は強い。




日本の単位は個人ではなくイエ


戦前に、国家社会主義で作られた体制は、大企業が中小企業を支える仕組みだ。さらに日本には古くからのイエ制度がある。政治家、官僚が大企業を指導することで、子会社、下請けが繋がっている。そして彼ら正社員には家族がいる。非正規と言われる若者やパートのおばさんは、単独で生活を支えているわけではない。イエの正社員にひも付いている。ある意味で、非正規を楽しんでいられる。彼は保守派の利権の一部だ。そのように考えると、保守派の利権から外れている人々は一握りとなる。そが総利権国家日本だ。

左派リベラルの間違いのすべては、西洋的に自由平等を個人単位でしか考えられないからだ。日本はいまもイエを中心に運営されている、オレオレ詐欺が成立する世界で得意な国だ。安倍政権が支持される理由は、西洋個人主義ではなく、イエ制度を考慮していること。家族で一人正社員がいれば、家族が潤う。その正社員の雇用という利権をなんとしても守ってあげる。それが安倍政権の真髄だ。働き方改革はネタではない。日本経済の確信に関わる。




戦前の国家社会主義から連続性


忘れられているが明治維新後の日本は、いまよりも自由競争が激しかった。それは、近代初期にどの国にも見られた傾向だが、むき出しの自由競争で、資本家と労働者の格差が広がり、労働者は劣悪な条件で働かされていた。西洋ではその反動で社会主義運動が活発になり、ここにマルクスなど共産主義者の革命の意義があった。しかし日本では、社会主義は徹底的に弾圧されて壊滅状態だった。そこで国家社会主義を目指したクーデターを起こしたのが青年将校たち右翼だ。226事件に代表的なように。

クーデター自体は失敗したが、それ以降、日本は軍部主導の国家社会主義化する。この時の革新官僚岸信介もいた。この国家社会主義体制は、戦後の55年体制に引き継がれていく。国家社会主義化は、官僚と政治家の陰謀論でなく、むき出しの自由競争を回避する、大衆を含めた利権体制と言える。そしていまも基本は変わっていないし、小泉政権民主党政権での改革の失敗を経て、安倍政権で再び回帰して、国民の支持を得て長期政権となった。

ではいまの安倍叩きはその反動か?全く逆だ。国家社会主義を延滞するために、安倍から小池など頭をすげかえるだけのことで、総国民の利権へと執着はむしろ増している。それがあからさまな左派リベラル排除だ。

日本は国家社会主義体制で、むき出しの自由競争から国民を守っている。グローバリズムのむき出しの自由競争に巻き込まれないように、国家は大企業を守り、大企業は下請けを守り、正社員は終身雇用、年功序列的な体制を維持している。国民は国家のために、せっせと銀行貯金する。国家は貯蓄をベースに国債を発行して、国内で還流する。格差が広がらず、失業率は低く、貿易黒字を維持する利権国家日本。左派リベラルに投票する馬鹿は、暇すぎるプロ市民だけだ。




日本の左派リベラルの最大勢力はマスコミ


そもそも左派リベラルなんて、支持しない。左派リベラルの最大勢力はマスコミだ。なぜがマスコミは左派リベラルが大好きで、偏向報道で右派保守の切り崩しにかかる。それに騙されるのがワイドショー好きのおばちゃんと、暇な学生。なぜマスコミは左派リベラルへ偏向するのか。一番は、55年体制後の自民党が強すぎるために、権力監視として、自らの立ち位置を見出したんだろう。

特に戦後に、GHQはます右翼の解体に取り組んだ。戦争犯罪者の逮捕から、地主、財閥の解体、そして労働組合の推進。しかしそれによって、共産主義革命が起きそうになる。朝鮮戦争など、共産主義との対立が深まる中で、慌てて、GHQはは右戻りに舵を切る。こうして戦前の国家社会主義的な面が戦後も残ることになる。

それでも、戦争の反動として、全共闘安保闘争など左翼活動は盛り上がりを見せる。この流れをいまも維持しているのがマスコミだろう。その当時の左翼がマスコミに就職しただけではないだろうが、いまもそのときの思いを持ってマスコミ報道の重鎮として、生き続けている。自民党1強が続く中で、それを監視する使命として継承されてきたんだろう。今では、時代遅れの化石になりつつある。




いまリベラルが語るべきは移民問題


難しい問題は一つだけある。日本が快適すぎて、自分の趣味に埋没して、少子化、高齢化している。これはどうしようもない。移民を受け入れるしか、日本を維持する方法はないが、移民を受け入れたら国民の利権はどうなるか。日本人のみに利権があれば、移民は暴動を起こすだろう。そろそろ日本の総利権国家も限界に来ているのは確かだ。

しかし右派保守のもちろん、左派リベラルでさえ、移民について語らない。ここが日本の左派リベラルのどうしようもないところだ。今こそ、保守に勝つ絶好のチャンスが来ているのに。アホみたいに、安倍ネガティブキャンペーンしかできない。

実際、ボクも前原クーデター前は、蓮舫の攻勢といい、二大政党として左派リベラルが浮上するんじゃないかと、騙されかけた。それが前原クーデターで、左派リベラルはマスコミの偏向報道で持ち上げられただけで、誰も支持していない日本人のお荷物だと明らかになった。前原クーデター後の、左派リベラルの排除すげぇな。

なぜ日本人は他人を救済しないのか

なぜ日本人は高い社会秩序を維持できるのか


世界的にも日本人ほど秩序の高い社会を営んでいる人々はいないだろう。このような高い秩序は、国家などトップダウンの厳格な法と規律訓練により可能になると、個人主義の西洋の文脈では考えられがちだ。しかし日本人は、特別、法、規律訓練が厳格化ということはない。この日本人の秩序を維持しているのは、通俗道徳である。小さい頃から厳しいしつけをしている訳ではなく、日本の通俗道徳は日本社会の慣習に組み込まれていて、日本で生活する中で、そのように振る舞っている面が強い。

勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従など儒教徳目を基礎とした通俗道徳は、時代遅れになりつつあると言われる。新たな秩序は、合理的で、個人を尊重する西洋近代的なものである。そこには、流れがある。通俗道徳から西洋合理性へ向かうことが正しいと。

それでも、いまの日本人の秩序は、西洋人のそれとは大きく違う。それは通俗道徳の本質が代わっていないからだ。確かに儒教的徳目は失われつつあるかもしれないが、本質である慈悲は変わっていない。より具体的には他者への配慮である。たとえば現代的な例では、空気を読むこと。あるいは世間圧。徳目は時代による変化はあっても、他者へ配慮しあう、互いに空気を見合うことにより、秩序を維持する日本人の秩序維持の特性は代わっていない。




なぜ日本人にはシルバーシートが必要なのか


外国人にとって、日本語一つにしても覚えるのは難解だし、それが日本の文化と密接であり、外国人が日本に住むのが大変なことは想像に難くない。他人を受け入れることに関しても、往々にして西洋人の方がフランクだ。たとえば西洋人は電車の中でお年寄りを見ると、さらっと席を譲る。シルバーシートなんて改めて決めているのは日本だけだ。

日本の慈悲は、弱者を救済しない。なぜなら仏教において、この世界に生きるすべての生きとし生きるもが弱者だからだ。だから弱者救済は暴力だ。誰かを弱者に貶めている。弱者も強者も、世間に慈悲を施す。救済という行為にはからなず、力関係が生まれる。慈悲はそれを戒める。日本人の他者への配慮とは、弱者救済ではない。みなが世間のために行う当たり前の配慮だ。ここに日本人の公平性がある。他者へ配慮することで、救済になっていないか、配慮する。互いに繰り返し繰り返し終わりなく配慮し合う再帰運動。それが現代なら日本人の空気を読むということだ。

日本人は救済することが嫌いだし、救済されることも嫌いだ。弱者に貶められる。だから根性論がうける。弱者であっても、助けを求めずみずから立ち上がる。自ら立ち上がれ!日本ではみな公平だ。

日本人ほど、他者へ配慮する再帰運動が活発な国民は他にいないだろう。外国人がよくいう日本人に対する印象、なにを考えているかわからない、言っていることと本音が違う、自分の意見をはっきり言わない。日本人の重層な再帰運動を前にした、単純な再帰運動の外国人の典型的な反応だ。日本人は本音を言わないのではなく、配慮の運動を繰り返して、絶えず相手と調整している。すなわち空気を読んでいる。しかし外国人にはこれは苦しいだろう。なぜなら再帰運動は、西洋精神分析でいう神経症と同じ構造だからだ。西洋人にしたら日本人の再帰運動は頭がおかしくなる。




なぜ日本に表示にあふれているのか


初対面の日本人の若者を数人集めて、名前をつけた名札をつけて共同作業をさせた。初対面の人たちはうまく連携できずに、作業が進まなかった。そこでみなの名札に年齢を書きこんだ。すると、途端に連動しだして、作業の効率が上がった。日本人らしいエピソードだ。会話するにしても、年齢がわからないと、タメ語なのか、敬語なのか、フリーズしてしまう。

日本人は再帰運動に慣れているが、それを補完するのが、儒教的礼だ。礼は理屈でなく、決まったルールだ。儒教的礼だけでなく、日本人は多くのルールを作るルール大国でもある。シルバーシートはその一つだし、日本の社会には、他国で信じられないぐらい沢山の表示にあふれている。

たとえば日本の駅に行くと狂ったように表示があふれている。日本人の他者へと配慮であるとともに、再帰運動の負荷を低減させるためだ。指示が明確でないと、日本人同士が何が正しいか顔を見合って、しまう。外国人ならみんな自分の好きにするだけのことだろうが。多くの指示は、不特定多数が集まり生まれる再帰運動にかかる社会的な負荷を低減している。これが行き過ぎると、大きな声で一方向に全体が流されやすい面が出てくる。また儒教的礼が衰退してから、日本人の中でうまく空気を読めず、精神疲労する人が増えているのも確かだ。




なぜ日本製品は世界に拡散できたのか


なぜか世間のポジティブな面はあまり語られない。日本人の中の終わりなき再帰運動を日本人は自虐的にガラパゴスと呼ぶが、みなのために奉仕するという日本人の世間の倫理は、たとえば生活空間としての広義の社会インフラを向上させて、世界的にも優秀な豊かで公平な社会を実現させている。

たとえば日本人が100円でチョコレートを買うとき、それはすでに美味しいのである。チョコレート屋は100円の安い商品だろうが、美味しいものを作ろうと努力する。日本の社会では高いからうまい、安いからまずいという合理的な経済法則は成り立たない。西洋のサービスは、価格により明確にランク分けされている。だから誰もが使う公共サービスは質が悪い。対して、日本のおもてなしは対価に相関しない。安い金でもできる限りのおもてなしをする。

その中から多くが世界へ発信されて、世界へ慈悲を届けている。日本製品、日本の工場、そして日本の影響を受けた製品は世界に拡散して、世界の社会インフラを向上させている。たとえば日本の品質管理技術は、世界中で取り入れられて、高品質な製品を安価に世界に拡散している。

ただ日本人の慈悲の再帰運動がやりすぎて、ガラパゴス化して価格が上がって、世界の貧しい人達が買えない。それを中国人は適度に手を抜いてコストを下げて、世界に発信している。中国、韓国は、日本人の慈悲の優秀な拡散機関とも言える。そしてそれら製品の中で日本の慈悲は世界の幸福を祈っている。



なぜ日本人は日本人批判が好きなのか


なぜ日本人は自虐がこんなに好きなのか。日本人批判をするのが大好きだ。一つの理由は、島国の閉じた疑似単一民族で、閉塞しやすく、自ら否定することでしか、閉塞から逃れることができないことがある。現に、弥生時代の稲作伝来から、輸入された文化が次の世代を作ってきた。稲作、鉄器、儒教、仏教、中央集権制、貨幣などなど。だから自虐は、外国に比べられて嘆かれる。iPhoneに比べてガラケーは・・・。

iPhoneの使いやすさを不思議に思う人は少ないのだろうか。PCを作った同じアメリカ人が作ったとは思えない。PCは思いのほか、広がっていない。使いにくさは情報弱者を排除する。情報強者の優越の箱とも言える。なぜiPhoneがこんなに番人受け入れられたのか。その前にiモードがあったからだ。そこで組み込まれているおもてなしの精神が、iPhoneに引き継がれた。日本人がwindowsを作っていればPCはこんなことにならなかった。

集中力もシンプルさに対する愛も、「禅によるものだ」とジョブズは言う。禅を通じてジョブズは直感力を研ぎすまし、注意をそらす存在や不要なものを意識から追い出す方法を学び、ミニマリズムに基づく美的感覚を身につけたのだ。P420

スティーブ・ジョブズ2 ウォルター・アイザックソン ISBN:4062171260

日本の右翼とはなにか?

日本の左翼と右翼


日本において、左翼とは法を重視する立場、右翼とは通俗道徳を重視する立場と言える。

通俗道徳。江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常の生活態度。この儒教的諸徳目は、18世紀末の石田梅岩石門心学、19世紀初の二宮尊徳の報徳社、大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆の日常生活に浸透していった。

また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆の指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。

生活規範そのものの実践が目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳は幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。

しかし他方で通俗道徳の実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、ここにはじまる広範な生活者の主体的な自己形成・自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。

これらの通俗道徳の実践は日常生活における人間存在そのものも変えることで、日本の近代化を根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会の全体性を認識する思想体系には至らず、天皇イデオロギーの土台となった」(阿部[2001:361])


http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/tu_tsuzokudotoku.html

ウェーバーが言ったように資本主義の成功には、プロテスタントの勤勉性があった。プロテスタントの勤勉は、天職概念によって支えられた。仕事は、神に与えられた天職だから全うしなければならない。その原動力が、初期の資本主義を成功に導いた。

では、日本人の通俗道徳はいかなる原動力よるか。それは、大乗仏教の慈悲だ。大乗仏教では、みなが互いに奉仕しあうことで、みんなで極楽にいくと考える。日本の通俗道徳は、日本人が互いに勤勉に働くことで日本人全体が幸福になることを目指す。

だからプロテスタントの勤勉が神と個人の関係に対して、日本人の通俗道徳は、現代的にいえば、相互監視的だ。私は頑張っている。ではお隣さんはどうか?要するに、それが江戸時代に成熟した世間という倫理だ。ここに日本人を信じるという右翼思想の源流がある。




天皇とは通俗道徳の究極の実践者


明治維新後、国家神道として、通俗道徳はいかに活用されたか。天皇は、キリスト教絶対神のような信仰対象ではない。そんなものをいきなり導入しても、日本人は受け入れない。天皇とは、日本人みなの幸福のための通俗道徳の完全な実践者という位置にいる。教育勅語は、通俗道徳そのものだが、天皇は完全に通俗道徳を実践している。だから日本人は天皇陛下を見習って、日本人のために通俗道徳を懸命に実践すること。それが国家神道の基本構造だ。お国の為に死ぬ。通俗道徳の実践であり、慈悲の実践、日本人みなが極楽に行くために奉仕するということ。

戦後、天皇は通俗道徳の究極的な実践者の位置を降りたが、基本的な日本人の通俗道徳の構造、世間体の構造はいまも変わっていない。日本人にとって、近代法よりも、世間体が重要だ。法によって処理されるだけでは納得せず、世間がなっとくすることを望む。




日本人の中の修羅


国を愛することは、近代国家のナショナリズムとして、どの国にもある。ただし敗戦前2年間に現れた日本人の愛国の姿は、通常のナショナリズムを超えていた。それはナショナリズムではなく、通俗道徳の変態。簡単に言えば、日本人総武士道化。慈悲は変態すると恐ろしい。無我だから。自らを無としみなのために奉仕する。

愛国は日本人の基本、近代以前から明治維新後もみな愛国のために頑張ってきた。そこにあるのはただ素朴な愛国だった。素朴に右翼だった。しかしその先に、敗戦前2年に地獄を見た。日本人は素朴に愛国を当たるのが怖くなった。日本人の中に済む修羅を見た。

それから、日本人の中の修羅は封印された。過去を語ること、真の日本人の歴史を語ることは禁止されて、日本人は温厚な人々で、世界の標準的な人々、右翼は恐ろしいものという封印教育が行われている。日本人自身が今もその姿に怯えている。また何かあれば変態するのでは?だから安易に愛国を語れない。




自民党一党体制は世間による国家運営に都合が良い


通常、先進国では、二大政党制など、その時々の政策によって選挙で選ばれる。日本が自民党一党であるのは、政策による選択より、世間が働いているからだ。日本人みなの幸福を目指す通俗道徳において、選択は必要ない。その場その場での合議によって国家運営は進められる。世間圧によって、政治が動くために、政党選択に意味が無い。むしろ民間団体、官僚と密接な関係をもつ自民党が政権にいることで、世間圧による国家運営がやりやすい。

民進党なんか左翼が政権をとった日には、民主主義だ、法だと、世間を無視して、西洋の理想論で国家運営を行い、世間と離れていってしまう。

日本の中道保守は、通俗道徳をもとにした右翼思想であり、日本人は左翼になることはあり得ない。日本人の通俗道徳の右翼ベースは、戦前の国家神道から戦後の自民党一党、官僚主導、会社主義、そして現代の空気を読むまで、繋がっている。




世間が支える生活空間としての高度な社会インフラ


近代の資本主義化で生まれた貧富の格差の地獄。人間の命さえ金で買える世界。自由と平等が生んだ世界。西洋はそれを社会保障という金の再配分というセーフティネットで補完している。日本人は世間という通俗道徳で補完している。世間は、左翼が言うような相互監視システムではない。みなのために奉仕しあうシステムだ。日本人はこの暖かいシステムを当たり前すぎて、意識しない。では日本人の世間とは何か?

日本の良さが若者をダメにする レジス・アルノー
http://newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2010/04/post-158.php


・・・18歳になるまで日本で暮らしたフランス人の多く(いや、ほとんどかもしれない)が選ぶのは、フランスよりも日本だ。なぜか。彼らは日本社会の柔和さや格差の小ささ、日常生活の質の高さを知っているからだ。

日本とフランスの両方で税務署や郵便局を利用したり、郊外の電車に乗ってみれば、よく分かる。日本は清潔で効率が良く、マナーもいい。フランスのこうした場所は、不潔で効率が悪くて、係員は攻撃的だ。2つの国で同じ体験をした人なら、100%私の意見に賛成するだろう。

・・・日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく日常生活にひそむ英知だ。だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。外国に出れば、「ジャングル」が待ち受けているのだ。だからあえて言うが、若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。

なぜ日本の街にはゴミ箱や灰皿が少ないのか
 「世界でもっとも清潔」だと、日本の街並みは外国人から高く評価されている
Newsweekjapan:http://www.newsweekjapan.jp/nippon/mystery/2017/03/188670.php


<街中にゴミ箱も灰皿も少ないのに「世界でもっとも清潔」だと、日本の街並みは外国人から高く評価されている>
「ゴミひとつ落ちていない!」や「世界でもっとも清潔な国だ」、そして「歓楽街ですらキレイなんて!」など、訪日外国人をインタビューするテレビ番組やネットの投稿などで、日本の清潔な街並みを賞賛する声を聞くことが多い。世界最大手の旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」の「旅行者による世界の都市調査」(2014年)でも、2位のシンガポール、3位のベルリンを抑え、街の清潔度で東京が1位を獲得と、その評価は世界的なようである。驚きの声と同時に彼らから上がるのが、「街にゴミ箱は少ないのになぜ!?」という疑問だ。

確かに、1995年の地下鉄サリン事件以降、テロ対策を名目に首都圏を中心に街中のゴミ箱は閉鎖・撤去されていったが、それ以降、コンビニエンスストアの店頭を除けば、現在もその数は大幅に減ったままだ。また、灰皿に関しても、以前は東京・銀座の中央通りに等間隔で置かれていた灰皿がすべて撤去されるなど、2002年以降に各自治体で制定されていった「路上喫煙禁止条例」を機に、路上の喫煙環境は大幅に縮小されている。

一方、欧米ではどうか。アメリカではニューヨークなどの大都市では1ブロックごとに大きなゴミ箱が配置されているものの、つねにゴミが溢れている状態だという。ヨーロッパ各国でも灰皿付きのゴミ箱が多く設置されているが、フランクフルト在住のマリア・ドイチュさんによれば、「ドイツでは歩きたばこがごく普通のこと。街中に灰皿もありますが、吸い殻のポイ捨てもあたりまえです」といった実情だ。ゴミ箱も灰皿も少ないのに、なぜ日本の街にはゴミも吸い殻も落ちていないのか――。多くの訪日外国人は日本の街、そして、日本人の清潔さを賞賛する一方で、あまりの清潔さにある種の畏怖にも似た不思議な感情を持っているのだろう。

一人当たりGDPがイタリア並みでも日本経済は素晴らしい

塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7677?layout=b


イタリアというと、「ローマ帝国の歴史は素晴らしいが、今の経済は低迷している」、という イメージが強いのですが、なんと2014年の一人当たり名目GDPは、日本とほとんど同じなのです。夏のバカンスを充分楽しみ、それ以外の時も「難しい顔をせずに」働いているイタリア人と、いつでも難しい顔で働いている日本人の年間GDPが同じだなんて、兎小屋に住むワーカホリック(日本のサラリーマンを指す昔の流行語。狭い家に住む働き中毒という意味)には、到底受け入れ難い統計です。

しかし実際には、日本人とイタリア人の豊かさは異なりますので、過度に悲観する必要はありません。今回は、日本とイタリアの経済の差について、考えてみましょう。はじめに、現在の日本人はイタリア人よりも豊かに暮らしているので、カリカリしなくても大丈夫、という話をしましょう。

第一に、為替レートの話、第二に、品質の比較の話です。2014年は、円安ユーロ高でした。その時の為替レートで換算すると、日本とイタリアの一人当たり名目GDPが同じだったという事は、その後に円高ユーロ安が進んでいることを考えると、今の為替レートで換算すると、一人当たり名目GDPは日本の方が遥かに大きい、という事になります。このように、為替レートが動くと「一人当たり名目GDPの国際比較」 が大きく変化するので、注意が必要なのですが、そのあたりの話は別の機会に譲りましょう。

いまひとつ、「日本人とイタリア人が同じものを使っている」という場合に、品質をどう比較するのか、という問題があります。たとえば日本の電車は非常に正確に動いています。5分遅れると社内放送でお詫びが流れます。そんな国はどこにも無いでしょう。少なくとも、イタリアは絶対に違います。その違いを無視して、「イタリアでも日本でも一人の乗客を100キロメートル運んでいるから同じGDPだ」といった計算をする事が問題なのです。豊かさという点では、電車が定時運行している国の方が豊かでしょう。その分がGDPの計算には織り込まれていないのです。電車を定時運行するためのコストは、おそらく非常に大きいでしょう。たとえば、何かあった時のために交代要因が各駅に待機しているかもしれません。簡単な故障なら自分で修理できるように全員が講習を受けているかもしれません。「30分までなら遅れても良い」ということだと、交代要因や修理工が30分以内に到着すれば良いですから、もしかすると会社全体の仕事量が1割減るかも知れません。そうだとすると、日本の鉄道はイタリアの鉄道より、1割多いサービスを提供しているということになるはずです。

その分だけ日本のGDPが大きくなっても良いのでしょうが、実際のGDP統計にはその違いは反映されていないのです。「5分遅れるとお詫びするのは過剰サービスだ。30分までの遅れは認める代わりに、運賃を10%引き下げるべきだ(あるいは鉄道職員は1割早く帰宅すべきだ)」というのは簡単ですが、問題は消費者が正確性を求めていることです。「頻繁に30分遅れるが10%安い鉄道会社」と「滅多に遅れないが料金が高い鉄道会社」があったとすると、イタリア人消費者は前者を、日本人消費者は後者を選ぶのでしょう。だから、両国で異なるサービスが提供されているのでしょう。なにしろ、製造業の世界でも、「日本の消費者は世界一うるさい。うるさい消費者に鍛えられたから日本製品は故障しにくいと世界で評判なのだ」と言われているくらいですから。


世間が相互監視システムとしか見えないのは、左翼が世間を貶めるためのネガティブキャンペーンによる。日本人の世間の倫理は、みなのために奉仕すること、最近の流行りではおもてなしにより、たとえば生活空間としての広義の社会インフラを向上させて、世界的にも優秀な豊かで公平な社会を実現させている。

日本にも経済格差はある。先進国の中では小さいにしても。日本人は経済格差を否定しない。それは職の結果であり、働くことの原動力の一つだからだ。たとえば日本人が100円でチョコレートを買うとき、それはすでに美味しいのである。チョコレート屋は100円の安い商品だろうが、美味しいものを作ろうと努力する。

日本の社会では高いからうまい、安いからまずいという左翼的経済の相関は成り立たない。西洋のサービスは、価格により明確にランク分けされている。だから誰もが使う公共サービスは質が悪い。対して、日本のおもてなしは対価に相関しない。安い金でもできる限りのおもてなしをする。それが日本人の世間の倫理だ。このように日本人は、西洋的な平等を排除して、公平で豊かな社会を構築してきた。

日本人を知るための本


神道とは何か - 神と仏の日本史 伊藤聡 中公新書 ISBN:4121021584


沈黙の宗教――儒教 加地伸行 ちくま学芸文庫 ISBN:4480093656


慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220


宗教以前 高取正男 ちくま学芸文庫 ISBN:448009301X


太平記読み」の時代: 近世政治思想史の構想 若尾政希 平凡社ライブラリー ISBN:4582767753


日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和 渡辺京二 洋泉社MC新書 ISBN:4862482643


葬式仏教の誕生−中世の仏教革命 松尾剛次 平凡社新書 ISBN:4582856004


江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 尾藤正英 岩波現代文庫 ISBN:4006001584


逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社ライブラリー ISBN:4582765521


日本の近代化と民衆思想 安丸良夫 平凡社ライブラリー ISBN:4582763065


元老―近代日本の真の指導者たち 伊藤之雄 中公新書 ISBN:412102379X


未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命― 片山杜秀 新潮選書 ISBN:410603705X


1940年体制(増補版) 野口悠紀雄 ASIN:B00979PHW6


日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ 飯尾潤 中公新書 ISBN:4121019059

日本人の勤勉のゆくえ

日本人の職分論


日本人から仕事取るとなにが残るのか。仕事以外のいろんなものが残るだろう。それは日本人に限ったことじゃない。でも日本人にとって仕事は特別だ。なぜならやりがいがあるから。仕事へのやりがいとはなにか?やりがいとは職分である。日本人には互いに職分を認めあう慈悲の文化がある。

西洋が奴隷文化として発達したのとは違う。働かないことを上等として、働くことを下等な奴隷仕事と考えた。日本人は職に日本人として、日本人のために、誇りを持ち、責任を持ち、やりがいを持つ。現に作業者においてもしかり、責任を持つ、任し任される。

ひよっこhttp://www.nhk.or.jp/hiyokko/のみね子はラジオの組み立て工場のライン行員だ。貧しい実家に仕送りするために東京の工場で働いている。彼女の目的は一番はお金を稼ぐことだ。彼女は電気屋に並ぶ自社のラジオを誇りに思う。自分が関わった製品を人々が購入し自分は世間の役に立っている。外国製品と競争が激しくなっているらしい。もっと頑張らなければ。それが職分である。

たとえば家庭生活において動くお金は十万円単位だ。しかし会社において、動く単位は千万円、億円単位だ。装置、機械、システム、人員。職は世の中につながり、大きな影響を与える。そこに日本人としてのそれぞれの役割があり、責任が生まれ、やりがいが生まれる。仕事は世界に繋がる通路だ。だから楽しいし、人生を賭ける価値がある。




日本人の勤勉はどこへいくのか


しかし状況は変わりつつある。職から労働に変わりつつある。労働は対価に対する作業をこなすことを求められる。作業はマニュアル化され、人員は簡単に代替可能になる。その大きな理由の一つが第三次産業化だ。第二次産業の機械化ではまだ労働者には熟練が求められた。優秀な労働者が機械を操ることで、作業効率が改善した。そのために熟練労働者を囲い、年功序列、終身雇用が成立した。

しかし第三次産業のサービス業では、それぞれの客への個別対応であり、人海が求められる。それを効率化するには、作業をマニュアル化して、どの作業者でもできるようにして、熟練化による賃金上昇を抑えることが求められる。そしてさらには、ITによるセルフサービス化による人員を削減する。ここでシステムを設計するクリエイターの高賃金者と、単なる時間作業を行う低賃金者の二極化が起こる。正社員と非正規の二極化がここにある。

しかしさらには正社員なら勝ち組か。そう単純ではなさそうだ。第三次産業、サービス商品の移り変わりは早い。流行に左右されるために、会社の収益も安定せず、正社員も安泰ではない。いつリストラに合うかもわからない。リストラされなくても、会社内の移動など。残業時間の短縮も、無駄に働かされなくてすむと喜んでいられない。正社員さえも、業務の効率化、マニュアル化が求まられる。もはやかつての第二次産業を基盤とした雇用の安定、職の熟練、サービス残業してでも会社のために、世のためにという幸福な時代は過ぎ去りつつある。

戦後の高度成長期までは、多くが第一次産業で土地に根ざして肉体労働でつらいながらも、自らの土地に根ざし職を全うしてきた。そして高度成長期には第二次産業で終身雇用として職の安定が保障されて職を全うしてきた。しかし高度成長期をすぎ、低経済成長時代、第三次産業化で、職は流動化して、作業化している。

日本人のやりがいはどこに行くのか。安倍内閣働き方改革は、日本人の職分を救うことができるのか。ボクは日本人の世のために役割を全うするという勤勉さを信じている。楽観的だ。それは第三次産業化で職が流動化してもだ。そこにある日本人の勤勉エネルギーはどこに向かおうとしているのか。

さてユーチューブをみよう。

平成28年9月27日 働き方改革実現会議  安倍総理


働き方改革』のポイントは、働く方に、より良い将来の展望を持っていただくことであります。同一労働同一賃金を実現し、正規と非正規の労働者の格差を埋め、若者が将来に明るい希望が持てるようにしなければなりません。中間層が厚みを増し、より多く消費をし、より多くの方が家族を持てるようにしなければなりません。そうなれば、日本の出生率は改善していくわけであります。
1番目に、同一労働同一賃金など非正規雇用の処遇改善。
2番目に、賃金引き上げと労働生産性の向上。
3番目に、時間外労働の上限規制の在り方など長時間労働の是正。
4番目に、雇用吸収力の高い産業への転職・再就職支援、人材育成、格差を固定化させない教育の問題。
5番目に、テレワーク、副業・兼業といった柔軟な働き方。
6番目に、働き方に中立的な社会保障制度・税制など女性・若者が活躍しやすい環境整備。
7番目に、高齢者の就業促進。
8番目に、病気の治療、そして子育て・介護と仕事の両立。
9番目に、外国人材の受入れの問題。

なぜ日本人の倫理は慈悲なのか

これは日本人とはなにか、という一つの物語です。


慈悲と純粋贈与


慈悲の一番の特徴はなんでしょうか。他者に無償で奉仕するということでしょう。このような無償の奉仕は、多くの文化で見られるものです。それは互いに奉仕しあうという贈与交換が人類に共通の経済的は行為であることから、自らへの返礼を求めないという特殊なケースとしてある。それは多くにおいて、日常の贈与交換に対して神的な行為とされ、純粋贈与と呼ばれます。

このような純粋贈与の起源を考えると、自然からの恵み、あるいは自然による破壊という天災などが考えられます。自然を大いなる他者と考えた場合に、偶然に与えられた大きな恵みを他者に無償で分け与える、また天災にあった他者を無償で助ける。自然は神的なものであり同時に、それを介在するものは神的な者となり、純粋贈与を行う神的な者となります。これは純粋贈与の始まりの一つの物語です。

さらには、より能動的な例として、世界宗教では、積極的に無償の奉仕が語られます。キリスト教の慈愛、そして仏教の慈悲など、人類愛としての無償の奉仕が語られます。このように他者への無償の奉仕は、どの文化にも見られる交換形態の一つと言えます。さらにはそれぞれに特徴があります。では日本人の慈悲はいかなる特徴があるか。その基本は仏教から来ています。




日本人の慈悲の特徴


たとえばキリスト教の慈愛は、キリスト教教義の重要ものではありますが、一番は神を信じることであり、慈愛も神からの命令の一つです。それに対して仏教は慈悲の宗教と言われるように、慈悲は教義の中心概念です。慈悲を通して、自らを悟りを開くことが目指されます。ここで大きな違いが生まれます。キリスト教の慈愛は弱者救済の面が強い。しかし仏教では生きていることが苦であり、いわばみな弱者であり、弱者救済に限らず、すべての行為において、慈悲が求められます。たとえば挨拶をすることや、気遣いなと日常レベルも慈悲行です。

このように全面化するなかで、無償の奉仕は高度に掘り下げられます。その一つが三輪清浄という考え方です。慈悲は与えることだけでなく、受け取る方のこと考えることも重要です。贈与の大きな特徴は、与えた者に優越感を与え、与えられた者に負債感を与え、そこに力関係が生まることがあります。与える方がどんなに無償であっても、受ける方には負債感が生まれます。三輪清浄においては受け取る方の負債感を与えないことも考慮することを求めます。

キリスト教の慈愛にここまでの繊細さはない。それは一つはそこに神が介在しているかもしれません。言ってしまえば、慈愛は神の命令であり、受け取る方も神からの贈り物です。

このような他者への配慮は特に日本人により特徴的な気がします。西洋人が積極的、直接的に弱者救済するのに対して、日本人にはその積極性がない。たとえば卑近な例では電車でお年寄りに席を譲る場合、受ける方、あるいは周りの目をのことを考えてしまう。受ける方のプライドを傷つけないか、すなわち負債を与えないか。やり過ぎの奉仕は相手に負債を与えて、恥をかかせることになる。あるいは周りから、かっこつけている、すなわち優越を得ようとしていると見られないか。だから日本人は直接的な無償の奉仕が苦手です。日本に独特な優先座席という制度も誘導されることで気兼ねなく奉仕することを役割をしていると言えるでしょう。




日本人の職分論


このような仏教の慈悲の特徴である、生活への全面化、あるいは直接的を避ける傾向から、一つの解として、日本では江戸時代に職分論が発展します。みなそれぞれ職を全うしよう。それが世の中への貢献となり、慈悲行であるという考え方です。

似た考え方にプロテスタントの天職論があります。職は神から与えられた天職であり、懸命に働くことが信仰である。ウェーバーが指摘したように、これが初期の西洋での資本主義発展の原動力になりました。面白いのは、日本でも江戸末期のプレ資本主義段階で職分論が広まったことです。現に働くことが豊かさに繋がる段階であったことが重要なのでしょう。

ここでも日本人の職分論と、プロテスタントの天職とは質的な違いがあります。日本人の場合は、慈悲論から構造化されて、全体の中の役割を担うことが重視されます。たとえば家、すなわち家督、家業の継続が重視されます。それに対して、プロテスタントの天職では、役割よりその人が懸命に働くことが重視されます。

まとめると、他者への無償の奉仕は、神的なものとして、様々な文化で見られる。その中で日本人の慈悲は、日常に全面化し、さらに他者への配慮を重視して、間接的な傾向がある。特に世の中に対して家業としての役割を担い続ける職分論として発展した、ということです。




日本人の中の仏教と儒教


仏教の影響が大きいですが、また儒教の影響も無視できません。そもそも日本人において、仏教の影響と儒教の影響を切り離すことは難しい。たとえば日本仏教の歴史を考えると、インドで発祥した仏教は中国に伝わり、儒教老荘思想の影響を受けて、中国仏教となり、飛鳥時代に日本に伝わります。さらには中国仏教は、その後より中国思想と融合し、儒教では朱子学陽明学、仏教では禅宗となります。そしてその波がまた鎌倉から江戸時代に日本にやってきます。

江戸時代に檀家制度として、国民総仏教徒となります。方や、朱子学は幕府に推奨されて、特に武士の倫理として重視されます。さらに日本で融合して、特に民衆道徳として生活に密着して行く中では、お互いの影響を切り離すことは難しい。

儒教にも他者への無償の奉仕はあります。儒教は葬儀儀礼から発展したと言われます。礼に従い祖先を敬う。それは儒教の中心概念、孝とつながります。礼に従い親を敬う。親もまた徳を持って子に接する。それが目上の者へ、主君へと展開され、徳治による国家運営となる。

だから他者への無償の奉仕も、徳が基本となります。世界宗教のような人類愛よりも、自らの所属する組織のために、見返りなく奉仕する面が強い。儒教は実働を重視することからも、人類のような抽象的なものよりも、目の前の現実の人を重視します。

しかし儒教において無償の奉仕は本質ではありません。儒教は宗教ではなく、合理的で統治術と言われる所以はここにあります。たとえば日本で江戸時代に武士に儒教が奨励されたのは、それ以前の武士道の非合理的な刹那主義を解消し、合理的な秩序をもたらすためと言われます。

たとえば江戸初期に流行ったのが殉死です。主君が死ぬとともに自決することが家臣の忠義とされました。このような非合理的な行為を幕府は禁止しました。その時に重視されたものが儒教倫理です。あるいは赤穂浪士も、世間から喝采を浴びましたが、儒教倫理によって、否定され浪士たちは処罰されました。このように儒教に還元されない武士道的倫理は、自らを滅して他者のために奉仕する仏教の慈悲の影響が大きいでしょう。

しかしかと言って、殉死は仏教の慈悲であるか。確かに自らを捧げることは究極の無償の奉仕ではありますが、君主のために捧げることは、そこには儒教的な縦関係があります。ここに日本人の慈悲の特徴の組織の中の役割主義があります。極端に言えば、殉死することもまた武士の一つの職分であった。世のためにそれぞれの役割を全うすることが美しい。そして役割を全うすることに世間圧が働いていた。商人も農民も役割を全うしているんだから武士も役割を全うするよね。そこに赤穂浪士への喝采の理由の一つがあったのでしょう。

武士道とは死ねこととを見つけたり。山本常朝しかり、武士は多くにおいて儒教を重視するとともに、仏教とも切り離せない存在でした。武士道は多くにおいて儒教的と考えられますが、その本質には慈悲があります。それが中国の儒教とは異なる日本人の独自性になっています。

まとめると、他者への無償の奉仕は、神的なものとして、様々な文化で見られる。その中で日本人の慈悲は、日常に全面化し、さらに他者への配慮を重視して、間接的である傾向がある。特に世の中での家として役割を担い続ける職分論として発展した。それは日本人独自の儒教と慈悲の融合として成熟した。

このような日本人の慈悲は、江戸時代末期から明治を超えて一般にも広がります。有名なものに石田梅岩石門心学があります。武士道的倫理を商人道、農民道などへ展開しました。その中心にあるのは職分論としての勤勉主義です。世のために懸命に働くことに職業の差などない。

職は誰もが世間に必要な役割を担っている上で水平のバランスであす。それはまた世間圧としても働く。さらに直接の無償の奉仕を避けることでも、職は間接的です。これは江戸時代末期から広がり、現代までつながる日本人の勤勉道徳の本質です。




プロテスタントの倫理が日本人の勤勉道徳を加速させた


明治以降、急速に西洋倫理が入ってきました。プロテスタントの倫理です。ウェーバーが指摘するように、資本主義の根底にはプロテスタントの勤勉と禁欲主義があります。そしてこのプロテスタントの道徳が、日本人の勤勉道徳の普及を加速させたことは否めないと思います。西洋人は、プロテスタントの厳しい倫理は近代化に欠かせないものとして、日本人に強くそれを求めました。日本人はそれをすでに日本の中にある勤勉道徳を強化することで対応しましま。

たとえば日本人の中になく西洋の倫理を大きく取り入れたものに性倫理があります。日本人は性倫理に対して寛容でした。このために着物では当たり前だった肌の露出の抑制、混浴禁止から、純愛思想、女性の貞淑、処女性などが法制定とともに、普及しました。。

逆に西洋の倫理から取り入れなかったものに、個人尊重があります。平等主義は神と個との原点に持つキリスト教倫理から来ています。個人重視が抑制された理由の一つは、明治時代はまさに西洋でも、民主革命の時代であり、成熟していなかったこと、さらに西洋での革命による政府転覆を目の当たりにして、政府がことごとく、左翼思想を弾圧したこと。

取り入れたのは、比較的民主化の進んでいないドイツの帝国憲法であり、皇帝の座に天皇が座る。そしてその基本にあるのは、日本人の慈悲の勤勉道徳です。天皇は勤勉道徳を神的に完璧に実践する者であり、日本の頂点であり、また公平な世間の中心である装置として作り上げられました。

結果的に、この発明はうまく機能して、短期間で日本は近代化を遂げることかできました。しかし西洋の近代化で問題が日本でも浮上してくる。経済的な格差です。西洋では、資本主義による経済発展の両輪として、民主化が進んでいました。しかし日本も明治憲法や議会制などを取り入れて民主化を進めましたが、実際は薩長を中心とした元老による政治運営で、民主化は抑制されてきました。明治維新の理念も薄れ元老が力を失った昭和初期には格差はピークに達する。折しも第一次世界大戦が終わり、反動の世界恐慌の時代です。そこで立ち上がったのが青年将校たちです。226事件では、彼らは首相や財界の有力者を襲撃しました。そして軍部運営による国家社会主義的な公平な社会を目指しました。

そこにある思想は、明治初期の理念である天皇を中心とした勤勉道徳による構造への回帰であり、軍部による国家社会主義的な運営です。革命は失敗しましたが、そこで大きく潮目が変わり、軍部中心の政治へとシフトし、その結果の国家総動員体制は、侵略戦争の強化ではありましたが、また国内運営では国家社会主義的な格差の小さい社会を目指した運営でもありました。

ここでは職分は日本人そのものまで拡張されて、全員が国のために自らを捧げるところまで達しました。日本人的な職分倫理が第二次世界大戦前の国家総動員体制で国民レベルで絶頂に達したといえるでしょう。そこにはやはり強い世間圧が働いていました。国家総動員体制は軍国主義として、軍部中心の悪弊のように言われますが、それは戦後に振り返ってからのことです。それは国民も熱狂し、支持した一つの革命でした。




日本人倫理の弱点


だから日本人は世界的に倫理的で勤勉であると言うことではありません。日本人の勤勉の特徴を述べただけです。反面として弱点を上げれば、直接的な奉仕が苦手と言うこと。西洋人が人助けに素早く反応するのに対して、他者に恥をかかせないか、自分がよく見えるようにしていると思われないか、また苦境は勤勉で乗り切るべきだという、精神論と言われるものに陥りがち。

さらには本質的に世間は日本であり、日本人圏に働くために、グローバルの中で閉塞しがちであり、日本人中心主義に陥りやすい。などが上げられます。

精神論、日本人中心主義は、振り返れば、戦前に突出しました。実際に日本の戦争の悲惨として語られるのは、敗戦前2年間のことです。すでに敗戦濃厚になってから、終わりにすることが出来ないことから、悲惨な状況は生まれました。死を捧げることを前提とする特攻、無謀な戦術、食糧もなく敵地に置き去りにされた東南アジアの兵士たち、本土空襲、そして原子爆弾。降伏しない日本に、民間人だろうが攻撃は徹底していった。戦争を合理的に判断できず、日本のために死を捧げて奉仕する精神論が先鋭化していった。

最初、B29は軍事施設をめがけて空爆していた。しかし日本のゼロ戦の攻撃を避けるための高度の高い位置からの空爆はほぼ目標に当たらなかった。そこで、軍事施設を狙うのをやめて、とにかく人の多い地域、大都市を狙う作戦になった。このような継続した国民殲滅的空爆作戦は、世界的にいまだかつてないものでした。

日本人の合理性を超えた戦争継続にアメリカ側もヒステリックになっていく。明らかに敗戦決定なのに、特攻作戦とか。アメリカの日本人殲滅作戦が始まる。原爆投下は日本人がキリスト教徒でなかったからと言われますが、それ以前にどうしたら日本人は戦争を止めるのかわからなくなったことにある。現に日本で何百万人と空爆で死に、さらに原爆が落とされても軍部はやる気だった。

日本人が戦争を止められなかった理由。天皇は神の子孫である神武天皇からの起源であり、この神の国は外国に征服されたことがない。負け方がわからない。

それを支える精神性に慈悲に基づく武士道がありました。我を滅して、国のために。いまから考えると、軍部指導者による国民の死の数を前提にした無謀な作戦に非難が集まっていますが、彼らは武士であり、また国民も武士であった。国民はみな死を国を捧げる存在であった。実際に国民が本当にそのように考えていたかは別にして。

というのは、最初から日本人が国民の死を前提にしていたわけではない。日露戦争は人類初の人海を排した物量による戦争と言われています。日本軍は徹底的に兵器を投入し、ロシアを殲滅した。それは日本に物量が少ないことから来る短期決戦戦略だった。一気に物量を投入して最低でも引き分けに持ち込む。それしか大国に勝つ手立てはない。

アメリカとの戦争もそこにしか勝機はなかった。しかしアメリカは逆に長期戦を狙った。日本に物量がないことを知っていた。鉄鋼、石油の多くをアメリカからの輸入に頼っていた日本は、アメリカ開戦時、二年程度の備蓄しかなかった。とともに、本格的に戦争をしたことないアメリカには兵器がまだ十分になかった。開戦を決めてから増産を始めた。そして長期戦になったとき、日本敗戦は確定したが、負けられない日本人に残るのは精神論しかなかった。

さらには、止めることを決定する決定機関がなかった。始めたときも現場での判断でずずるずると進んだ。ドイツがヒトラーの強い意志により始まり、ヒトラーが死んだことで終わったことと対照的です。

天皇とはなんだったのか。明治以降の天皇とは日本人を精神的に結びつける中心であり、中心であるために意志を持つことはなかった。何者にも偏らない無色であり、また究極の日本人の慈悲の実践者。教育勅語は日本人道徳の集大成であり、今にも十分通用する道徳内容ですが、天皇は究極的な実践者だった。結局、敗戦を決定したのは天皇であったし、天皇でなければならなかったが、もはや天皇が意思なく敗戦を決定せざるを得ないほどに、日本は徹底的に負けなければならなかったということでしょう。




そして戦後


国家総動員体制は、戦後も生き残り、経済成長を支えました。護送船団体制、官僚主導、終身雇用、年功序列、地方支援は、戦前の国家総動員体制への流れの中で生まれたものです。そしてそこには職分論の倫理が流れています。日本人として役割を全うする。それは日本人の公平性を支えています。

戦後の政治軸は、戦前の勤勉倫理による国家社会主義による公平性と、西洋的な民主主主義の平等との対立、すなわち保守とリベラルそして55年体制以後、自民党が多くにおいては与党であり得たのは、まさに前者をベースとしてきたからでしょう。自民党は人材的にも戦前の国家総動員体制を支えた人々が多くいた。

バブル後、不況から旧体制は懐疑されて、改革が求められました。小泉内閣はグローバル社会に対応するために、構造改革国家社会主義体制面を自由競争へと改革するよう進めました。また民主党などリベラルは西洋の富の直接的な分配の導入を試みた。これらは旧体制の日本独特の公平性との対立軸でしたが、長期の支持は得られませんでした。

それに対して、安倍政権は国家社会主義的なものを維持する旧体制への回帰する面が強い。大手企業重視の経済政策や、そして働き方改革等。職分論の継承と言えるでしょう。安倍政権の長期化は、安定的な政策の成功はもちろんですが、日本人の中の通俗道徳を基本とする国民の受け入れやすさ、安心感がベースにあるように思います。

また旧体制の問題が権力が腐敗しやすいことでした。現在、マスコミの安倍政権へと執拗な腐敗への追求は一つはかつての腐敗の経験から来るマスコミのトラウマかもしれません。その意味では、逆説的に言えば、マスコミの病的とも言える潔癖症により安倍政権の腐敗は抑制され、長期政権を支えている面があるとも言えます。




意外に根深い職分倫理


再度言えば、日本人の中で慈悲を基底とする倫理は、日常に全面化し、さらに他者への配慮を重視して間接的である傾向から、特に世の中での家として役割を担い続ける職分論として発展した。いまは家督、家名という単位は薄れたが家族、さらに個人として、職を全うしているか、それは世間に貢献しているかに繋がり、日本人にとって職は単に生活の糧を得る以上に、日本人としての存在理由に近い特別な意味を持つ。

とは言え、これからの日本人の倫理はどうなるのか?岐路に立っていることは間違いないでしょう。特にユーチューバーの躍進などネット活用での職に対する考えはかなり大きく変わっています。

むしろ政策としては定職にこだわらず、リベラルな富の分配、さらにはベーシックインカムのような政策が望まれるように思います。それでも安倍政権の、大企業優先や従来の職を前提とした働き方改革など、職に対する保守的な政策が許容されているのは、逆に驚きです。特に若者の安倍政権への支持率の高さの要因の一つには、就職率のよさ、すなわち職の安定が上げられるでしょう。さらにそれを日本人全体に広げるのが働き方改革のコンセプトでしょう。このことからも、実は日本人の職分による倫理はまだまだ根深いと言えます。




自由主義、リベラル、そして日本型世間主義


たとえばアメリカ、イギリスを代表とするような自由主義、フランスを代表とするようなリベラル、そして日本型国家社会主義、のように考えてみると、世界では自由主義とリベラルの対立が基本です。自由主義は機会の平等のもと自由競争を進めて、結果としての格差を許容する。それに対して、リベラルは自由競争抑えて富の再分配による結果としての平等を重視する。これらで前提とされているのは、民主主義。さらには個人主義です。あくまで個人が尊重されています。それに対して、自由主義とリベラルとの対立軸として、個人より共同体がある。これをサンデルは共同体主義という。その意味で日本型国家社会主義共同体主義的です。

しかし日本型国家社会主義は特殊です。職分倫理により日本人共同体が成立する。それは世間と呼ばれる。すなわち世間主義。世間は世界に日本にしかない。世間主義は、自由主義との相性が良いが、リベラルとは相性が悪い。自由主義の自由競争する個人は、世間につながることができます。ウェーバーのいうプロテスタントの天職概念が資本主義を躍進させたように。日本人の職分論は、勤勉により富を得ることを否定しません。元禄の西鶴からそういいっています。ただしそれが世間のための勤勉によってでなければすぐに凋落するだろうと。

しかしリベラルは、富を分配される個人です。結果としての平等を重視する。勤勉であるかどうか関係がない。無条件に救済される個人であり、強烈な平等の思想です。世間は、懸命に職を全うする勤勉の先に皆が享受できる共同体の豊かさがあります。そこに共同体の公平がある。働かざる者食うべからず、です。

ざっくり言えば、自由主義 小泉構造改革、リベラル 民主党政権、日本型国家社会主義 安倍政権と言うことです。小泉政権働き方改革なら、中途採用の奨励、雇用の流動性を重視したでしょう。現に小泉政権構造改革で非正規雇用が急増しました。民主党は、働き方よりも個人への富の再配分を重視する。そして安倍政権の働き方改革は、雇用の安定を重視します。多様な生活環境でも解雇されないよう、働き続けられるよう多様な勤務形態を許容することを目指す。

アベノミクスで金融緩和は実行しやすいし、即効性がありました。特にその前の民主党政権円高放置の経済音痴だっただけに。それが安倍政権のもっとも大きな効果です。そしてその効果をどのように活用するか。働き方を改革はその一つです。経済政策であるとともに、日本人の生きがいとしての職分を取り戻す。それは経済政策であり成功するかどうかにかかわらず、世間主義に訴えかける。